Miracle of "32" [Gould]
今年も残すところ、あと数日となりました。
いろいろな出来事でめまぐるしかった一年が過ぎようとしています。
そんな今年のしめくくりも、やはりGouldの記事で。
まずはこの曲を。
ブラボー!!
ゴールドベルク変奏曲で華々しくメジャーデビューしたGouldのセカンドアルバム。
"32"小節のアリアから始まり30の変奏曲を持つ、"32"曲から成るBachの変奏曲の次に録音されたのは、ベートーヴェンの"32"番のソナタの2楽章の変奏曲でした。
ゴールドベルクで衝撃のデビューを飾った後、この録音で彼は批評家達にボロボロに叩かれた。
「子供っぽく」「未熟で」「表面をなぞっているだけ」で「曲の構造を理解していないで」「騒々しく」「受け入れ難い」のだそうです。
かわいそうに天国の後、地獄を見てしまったんですねぇ・・・
私の持っているCDの解説にも、
「ピアノ作品の中でも特に神聖な作品として、ベテランのピアニストたちでさえ十分に成熟したという確信を得るまではなかなか手を付けないソナタである。」
と書いてあります。
そうなのかい。
年齢やキャリアが関係あるのかい。
初版のLPレコードには、Gould自身の解説が載っています。
その中では当時23歳のGouldが、そうした重鎮たちの解釈に「ナンセンス!」と、
その毒舌炸裂ぶりが面白いです。
「作曲家の音楽歴を年代で区切り、かなり気まぐれに選んだ時期別の特徴を押し付けることは、音楽人類学のお楽しみの一つであるようだ。
ほとんど切れ目なく生産にわたり作曲し続けた創作家の作品を、音楽鑑賞研究家は「誰それのなになに時代」と時代区分して考える。
彼らは、一人の芸術家による専門的概念の段階的発達を評価するという、厳しい割には地味な仕事に直面すると、突然に、音楽外のあいまいな感覚領域の預言者のような姿を見せる。
ベートーヴェンのいわゆる晩年の作品は、そうした音楽占い師にとって格別の魅力を持っているようだ。
そこではそれ以前の作品よりいっそう楽に遺言にあたるメッセージが読み取れると思うからである。
聴力障害によって内省に慰めを求めざるを得なくなったし、作品的に比較的不毛な時期が続いていた。
その結果、後年の作品は耳の不自由な男のあり得ないはずの計算違いの産物として、あるいは、それまでの全業績を超える創造力、実に音楽の機能、性格そのものを超える創造力の喜ばしい回復として説明されてきた。」
一方Gouldは、このソナタを「無防備な自発性と客観的統制力の調和を示唆している」曲とみています。
しかもその特質は、ベートーヴェンが生涯求め続けてきたものであるのだ、と。
その前触れは交響曲第7番、ソナタOp.101の動機の圧縮に、交響曲第8番の鈍い和声感覚部分に、ソナタOp.81aの顕著な力感的部分に見ることができる。
そして最後の3つのソナタも、そのあとに続く力強い四重奏曲の先触れなのである、と結論しています。
ふ~~~ん・・・
さて、
ここからは下世話なお話。
Gouldが、Bachの”32”の次にベートーヴェンの”32”を持ってきたのは偶然ですか?
”32”という数はなんでしょう・・・
原子番号32番の元素はゲルマニウム
酸素分子 O2 の分子量は約32
選抜高校野球大会の出場校は通常32校
華氏温度で 32°F は水の氷点
チェスの駒の数
また黒と白のマス目はそれぞれ32個
皇室の十六弁八重表菊紋の花弁の数
成人の歯の本数
1998年のフランス大会以後のワールドカップサッカーの本大会の出場枠
バスケットボール (NBA) のマジック・ジョンソンの背番号
.....
Gouldに関して言えば
19”32”年に生まれ
生まれ育った実家の番地が”32”
そして、”32”歳の時にコンサート活動をドロップアウト。
ふ~~~ん・・・
2014年
Gouldの没後”32”年を記念して。
みなさん、よいお年を!
いろいろな出来事でめまぐるしかった一年が過ぎようとしています。
そんな今年のしめくくりも、やはりGouldの記事で。
まずはこの曲を。
ブラボー!!
ゴールドベルク変奏曲で華々しくメジャーデビューしたGouldのセカンドアルバム。
"32"小節のアリアから始まり30の変奏曲を持つ、"32"曲から成るBachの変奏曲の次に録音されたのは、ベートーヴェンの"32"番のソナタの2楽章の変奏曲でした。
ゴールドベルクで衝撃のデビューを飾った後、この録音で彼は批評家達にボロボロに叩かれた。
「子供っぽく」「未熟で」「表面をなぞっているだけ」で「曲の構造を理解していないで」「騒々しく」「受け入れ難い」のだそうです。
かわいそうに天国の後、地獄を見てしまったんですねぇ・・・
私の持っているCDの解説にも、
「ピアノ作品の中でも特に神聖な作品として、ベテランのピアニストたちでさえ十分に成熟したという確信を得るまではなかなか手を付けないソナタである。」
と書いてあります。
そうなのかい。
年齢やキャリアが関係あるのかい。
初版のLPレコードには、Gould自身の解説が載っています。
その中では当時23歳のGouldが、そうした重鎮たちの解釈に「ナンセンス!」と、
その毒舌炸裂ぶりが面白いです。
「作曲家の音楽歴を年代で区切り、かなり気まぐれに選んだ時期別の特徴を押し付けることは、音楽人類学のお楽しみの一つであるようだ。
ほとんど切れ目なく生産にわたり作曲し続けた創作家の作品を、音楽鑑賞研究家は「誰それのなになに時代」と時代区分して考える。
彼らは、一人の芸術家による専門的概念の段階的発達を評価するという、厳しい割には地味な仕事に直面すると、突然に、音楽外のあいまいな感覚領域の預言者のような姿を見せる。
ベートーヴェンのいわゆる晩年の作品は、そうした音楽占い師にとって格別の魅力を持っているようだ。
そこではそれ以前の作品よりいっそう楽に遺言にあたるメッセージが読み取れると思うからである。
聴力障害によって内省に慰めを求めざるを得なくなったし、作品的に比較的不毛な時期が続いていた。
その結果、後年の作品は耳の不自由な男のあり得ないはずの計算違いの産物として、あるいは、それまでの全業績を超える創造力、実に音楽の機能、性格そのものを超える創造力の喜ばしい回復として説明されてきた。」
一方Gouldは、このソナタを「無防備な自発性と客観的統制力の調和を示唆している」曲とみています。
しかもその特質は、ベートーヴェンが生涯求め続けてきたものであるのだ、と。
その前触れは交響曲第7番、ソナタOp.101の動機の圧縮に、交響曲第8番の鈍い和声感覚部分に、ソナタOp.81aの顕著な力感的部分に見ることができる。
そして最後の3つのソナタも、そのあとに続く力強い四重奏曲の先触れなのである、と結論しています。
ふ~~~ん・・・
さて、
ここからは下世話なお話。
Gouldが、Bachの”32”の次にベートーヴェンの”32”を持ってきたのは偶然ですか?
”32”という数はなんでしょう・・・
原子番号32番の元素はゲルマニウム
酸素分子 O2 の分子量は約32
選抜高校野球大会の出場校は通常32校
華氏温度で 32°F は水の氷点
チェスの駒の数
また黒と白のマス目はそれぞれ32個
皇室の十六弁八重表菊紋の花弁の数
成人の歯の本数
1998年のフランス大会以後のワールドカップサッカーの本大会の出場枠
バスケットボール (NBA) のマジック・ジョンソンの背番号
.....
Gouldに関して言えば
19”32”年に生まれ
生まれ育った実家の番地が”32”
そして、”32”歳の時にコンサート活動をドロップアウト。
ふ~~~ん・・・
2014年
Gouldの没後”32”年を記念して。
みなさん、よいお年を!
his passion [Gould]
小学生の女の子とのレッスンで、一緒にいろんな楽譜を見ていた時、
「この英語なに?」と、彼女が楽語を指差した。
「これはイタリア語だよ。dolceはね、甘くて可愛いという意味だよ。ケーキとかキャンディーみたいの。」
すると横で聞いていた彼女のお母さんに、「dolceはやさしく、でしょ?」と訂正されました。
お母さん、イタリアン・レストランのメニューを思い出してみて。
デザートのところにdolceと書いてあるじゃない。そのイメージの方が近いと思いますよ。
ヨーロッパの音楽に接するということは、言語とか歴史とか文化とか、理解しなければならないことが沢山あります。
小さな子供にそれらをひとつひとつ説明していくことは楽しいし、改めて自分の勉強にもなります。
ブルグミュラーの練習曲は、初期のヨーロッパ文化入門の教材としても、とても役に立っています。
パストラルとは何か、そこで使われるドローン、バグパイプやミュゼットの響き。
「狩」の様子やホルンの役割。
バルカロールの拍子感や、小さい子供はまだ見たことのないヴェニスの風景。
アヴェ・マリアが何故4声体で書かれているのか・・・・などなど。
ただ、表題の和訳が相当ダサい。
よく指摘されていることで、最近は随分直されていますが、
一番びっくりするのは、「スティリアンヌ」を「スティリアの女」としたことですかね。
子供の頃このタイトルを見て、ハードボイルドな凄い悪い女を想像していました。
「スティリアンヌ」が「スティリアの女」なら、「シシリアーノ」は「シシリアの男」ということになるのか??
最近の本では、「シュタイヤー舞曲」と訂正されています。
「貴婦人の乗馬」も変ですよね。
原題を直訳すると「騎士道」。
貴婦人がどこから出てきたのか不明ですが、別の出版社のタイトルで「お嬢様の馬乗り」となっているのを見たときには、北海道あたりまでヨロけた。
和訳のタイトル、有名曲ほど定着してしまって一人歩きをしているようですが、
dolce=やさしく、みたいに訳語がたった一本のベクトルで普及してしまうのは味気ないと思います。
さて、ベートーヴェンのソナタ「熱情」。
この日本語のタイトルに以前から疑問を持っているのです。
「appassionata」は作曲家本人がつけたタイトルではないのですが、この曲のイメージとして定着していますね。
なぜ、「appassionata」とよばれるのか。
単純に日本語で「熱情」ときくと、内から湧き上がってくるような情熱を想像しますが、そんな表面的なイメージだけのことなのかな・・・
オープニングに低音で不気味に響く「運命の動機」から展開されるこの曲。
そして終楽章に向かう時に鳴り響く不穏なディミニッシュ・コードのファンファーレ・・・
「appassionata」のもとは、passionでしょ? つまり受難曲。
これを単純に「熱情」と訳してしまうなら、「マタイ受難曲」は「マシューの情熱」となってしまうね。
Wikipediaによると、passionはラテン語のpassus(pati, 苦しむ patior-) から生じた言葉ということだそうです。
英語で受動態のことをpassive voiceといいますよね。
ラテン語ではpassivum、フランス語はvoix passive、ドイツ語でPassiv。
つまり、内から湧き上がってくる感情というよりは外圧から受ける激しい感情というのが正しいのではないかしら。(ひどいことをされたわ~・・・みたいな)
さてここでやっと、登場。
Gouldの「熱情」です。(10分ちかくあるのにまだ半分)
発売当時、そして今なお不評なこの演奏。
エキセントリックなGouldがベートーヴェンをボロボロにした・・・という評価ですが、
私は、エキセントリックなのはむしろベートーヴェンの方だと思います。
Gouldはこの曲の文学的解釈を否定し、伝説的な後光をはずして楽曲そのものの真の姿を見せてくれただけ、と思います。
以下は、このソナタに対するGouldのライナー・ノートです。
「いわゆる「熱情」ソナタは、「悲愴」や「月光」同様、ベートーヴェンの鍵盤曲で最も人気のある作品にあげられる。しかし、打ち明けたところ、私にはそれだけの人気の理由がわからない。
ベートーヴェンが19世紀に入って10年間の間に書いた作品のほとんどに共通するのだが、「熱情」は主題の保持力を追求した作品である。この時期の彼には、非才の手にかかったら16小節の導入部さえできるかどうか危ういような素材から、巨大な構築物を創造するという自負心があった。このような主題はふつうは最も関心をひかないくせに、おりおりにはひじょうな危機感を与えるため、なぜベートーヴェンのような人物がそうした主題を考え出したのか、いぶかしく思われる。こうした動機の推敲はバロック風に対位法によって継続するのでもなく、ロココ風に装飾的でもない。18世紀初めの音楽が柔軟で、和解的で、慰撫に応じやすかったのとは逆に、決然として戦闘的で、譲歩に抵抗する。
これほど戦闘的な構えで作曲したものは彼以前には誰もいない。ある意味で彼以降もいない。
そうした彼の方法が機能するとき・・・彼のすさまじい猛攻がその目標を見出したとき・・・個人的であると同時に一般的なある革新が音楽の修辞的要求を超えてしまっていることが感じ取れる。
しかし、うまくいかないとき、彼の中期の作品群はその同じ仮借のない動機探求の犠牲になってしまう。
「熱情ソナタ」は、その意味で彼の方法が機能していない、と思う。
第一楽章アレグロでは、第一主題、第二主題ともに三和音のアルペッジオ音型によって生まれているが、両者の関係はなぜか焦点を失っている。冒頭のヘ短調による主題提示には関係長調の補助動機がしっかりと従っており、ベートーヴェンの最も注意深く考えられたほかのさまざまな提示部を支配している仮借ない調性的戦略の効果があがっていない。展開部も同様に統制がとれていない。ベートーヴェンの展開部組み立てが成功している場合、その存在理由となる秩序と混沌による独自の合成物、あの、中心で猛威を振るう壮大なものに代わって、ステレオタイプ的な反復進行が置かれているのだ。
第二楽章アンダンテを組み立てている4つの変奏は、変ニ長調の、暗く合流する主要和音から導かれたものであるが、拡がりを欠いている。終楽章は「月光ソナタ」の終楽章と同じように、本質的にはソナタ・アレグロで、トッカータ風の伴奏動機を執拗に用いることによって、点描的に描かれたホルンの音と、掻き鳴らされるコントラバス効果をほぼ完全に印刷ページから浮かび上がらせている。再現部の末尾、コーダに向かって熱っぽいストレットにむちを入れて突入する前、ベートーヴェンは妙な18小節のギャロップを挿入している。
老練のヴィルトゥオーゾはどんなにまずい演奏をしていても英雄気取りの見えを切ることによって、大向こうから熱狂的な喝采を集めるものだが、この作品でそうした見えに相当するのが、活気づいたテンポ、単純なリズム型からなるこの18小節である。
ベートーヴェンは生涯のこの時期、動機の経済性に専念していたわけではない。彼はベートーヴェンであることにも心を砕いていた。「熱情」には、自己中心的な尊大さがある。「私があれを再利用して首尾よくやれないかどうか、目にもの見せん」といった傲慢な態度がある。だから、私の選んだベートーヴェン作品人気番付表によれば、このソナタは「シュテファン王序曲」と「ウェリントンの勝利」交響曲の間に位置している。」
この解釈からうまれた演奏は沢山の批評家たちに散々批判されてしまい、スキャンダルにまでなってしまいました。
「apassionata」は、Gouldにとってはまさにpassionでしたか。
「この英語なに?」と、彼女が楽語を指差した。
「これはイタリア語だよ。dolceはね、甘くて可愛いという意味だよ。ケーキとかキャンディーみたいの。」
すると横で聞いていた彼女のお母さんに、「dolceはやさしく、でしょ?」と訂正されました。
お母さん、イタリアン・レストランのメニューを思い出してみて。
デザートのところにdolceと書いてあるじゃない。そのイメージの方が近いと思いますよ。
ヨーロッパの音楽に接するということは、言語とか歴史とか文化とか、理解しなければならないことが沢山あります。
小さな子供にそれらをひとつひとつ説明していくことは楽しいし、改めて自分の勉強にもなります。
ブルグミュラーの練習曲は、初期のヨーロッパ文化入門の教材としても、とても役に立っています。
パストラルとは何か、そこで使われるドローン、バグパイプやミュゼットの響き。
「狩」の様子やホルンの役割。
バルカロールの拍子感や、小さい子供はまだ見たことのないヴェニスの風景。
アヴェ・マリアが何故4声体で書かれているのか・・・・などなど。
ただ、表題の和訳が相当ダサい。
よく指摘されていることで、最近は随分直されていますが、
一番びっくりするのは、「スティリアンヌ」を「スティリアの女」としたことですかね。
子供の頃このタイトルを見て、ハードボイルドな凄い悪い女を想像していました。
「スティリアンヌ」が「スティリアの女」なら、「シシリアーノ」は「シシリアの男」ということになるのか??
最近の本では、「シュタイヤー舞曲」と訂正されています。
「貴婦人の乗馬」も変ですよね。
原題を直訳すると「騎士道」。
貴婦人がどこから出てきたのか不明ですが、別の出版社のタイトルで「お嬢様の馬乗り」となっているのを見たときには、北海道あたりまでヨロけた。
和訳のタイトル、有名曲ほど定着してしまって一人歩きをしているようですが、
dolce=やさしく、みたいに訳語がたった一本のベクトルで普及してしまうのは味気ないと思います。
さて、ベートーヴェンのソナタ「熱情」。
この日本語のタイトルに以前から疑問を持っているのです。
「appassionata」は作曲家本人がつけたタイトルではないのですが、この曲のイメージとして定着していますね。
なぜ、「appassionata」とよばれるのか。
単純に日本語で「熱情」ときくと、内から湧き上がってくるような情熱を想像しますが、そんな表面的なイメージだけのことなのかな・・・
オープニングに低音で不気味に響く「運命の動機」から展開されるこの曲。
そして終楽章に向かう時に鳴り響く不穏なディミニッシュ・コードのファンファーレ・・・
「appassionata」のもとは、passionでしょ? つまり受難曲。
これを単純に「熱情」と訳してしまうなら、「マタイ受難曲」は「マシューの情熱」となってしまうね。
Wikipediaによると、passionはラテン語のpassus(pati, 苦しむ patior-) から生じた言葉ということだそうです。
英語で受動態のことをpassive voiceといいますよね。
ラテン語ではpassivum、フランス語はvoix passive、ドイツ語でPassiv。
つまり、内から湧き上がってくる感情というよりは外圧から受ける激しい感情というのが正しいのではないかしら。(ひどいことをされたわ~・・・みたいな)
さてここでやっと、登場。
Gouldの「熱情」です。(10分ちかくあるのにまだ半分)
発売当時、そして今なお不評なこの演奏。
エキセントリックなGouldがベートーヴェンをボロボロにした・・・という評価ですが、
私は、エキセントリックなのはむしろベートーヴェンの方だと思います。
Gouldはこの曲の文学的解釈を否定し、伝説的な後光をはずして楽曲そのものの真の姿を見せてくれただけ、と思います。
以下は、このソナタに対するGouldのライナー・ノートです。
「いわゆる「熱情」ソナタは、「悲愴」や「月光」同様、ベートーヴェンの鍵盤曲で最も人気のある作品にあげられる。しかし、打ち明けたところ、私にはそれだけの人気の理由がわからない。
ベートーヴェンが19世紀に入って10年間の間に書いた作品のほとんどに共通するのだが、「熱情」は主題の保持力を追求した作品である。この時期の彼には、非才の手にかかったら16小節の導入部さえできるかどうか危ういような素材から、巨大な構築物を創造するという自負心があった。このような主題はふつうは最も関心をひかないくせに、おりおりにはひじょうな危機感を与えるため、なぜベートーヴェンのような人物がそうした主題を考え出したのか、いぶかしく思われる。こうした動機の推敲はバロック風に対位法によって継続するのでもなく、ロココ風に装飾的でもない。18世紀初めの音楽が柔軟で、和解的で、慰撫に応じやすかったのとは逆に、決然として戦闘的で、譲歩に抵抗する。
これほど戦闘的な構えで作曲したものは彼以前には誰もいない。ある意味で彼以降もいない。
そうした彼の方法が機能するとき・・・彼のすさまじい猛攻がその目標を見出したとき・・・個人的であると同時に一般的なある革新が音楽の修辞的要求を超えてしまっていることが感じ取れる。
しかし、うまくいかないとき、彼の中期の作品群はその同じ仮借のない動機探求の犠牲になってしまう。
「熱情ソナタ」は、その意味で彼の方法が機能していない、と思う。
第一楽章アレグロでは、第一主題、第二主題ともに三和音のアルペッジオ音型によって生まれているが、両者の関係はなぜか焦点を失っている。冒頭のヘ短調による主題提示には関係長調の補助動機がしっかりと従っており、ベートーヴェンの最も注意深く考えられたほかのさまざまな提示部を支配している仮借ない調性的戦略の効果があがっていない。展開部も同様に統制がとれていない。ベートーヴェンの展開部組み立てが成功している場合、その存在理由となる秩序と混沌による独自の合成物、あの、中心で猛威を振るう壮大なものに代わって、ステレオタイプ的な反復進行が置かれているのだ。
第二楽章アンダンテを組み立てている4つの変奏は、変ニ長調の、暗く合流する主要和音から導かれたものであるが、拡がりを欠いている。終楽章は「月光ソナタ」の終楽章と同じように、本質的にはソナタ・アレグロで、トッカータ風の伴奏動機を執拗に用いることによって、点描的に描かれたホルンの音と、掻き鳴らされるコントラバス効果をほぼ完全に印刷ページから浮かび上がらせている。再現部の末尾、コーダに向かって熱っぽいストレットにむちを入れて突入する前、ベートーヴェンは妙な18小節のギャロップを挿入している。
老練のヴィルトゥオーゾはどんなにまずい演奏をしていても英雄気取りの見えを切ることによって、大向こうから熱狂的な喝采を集めるものだが、この作品でそうした見えに相当するのが、活気づいたテンポ、単純なリズム型からなるこの18小節である。
ベートーヴェンは生涯のこの時期、動機の経済性に専念していたわけではない。彼はベートーヴェンであることにも心を砕いていた。「熱情」には、自己中心的な尊大さがある。「私があれを再利用して首尾よくやれないかどうか、目にもの見せん」といった傲慢な態度がある。だから、私の選んだベートーヴェン作品人気番付表によれば、このソナタは「シュテファン王序曲」と「ウェリントンの勝利」交響曲の間に位置している。」
この解釈からうまれた演奏は沢山の批評家たちに散々批判されてしまい、スキャンダルにまでなってしまいました。
「apassionata」は、Gouldにとってはまさにpassionでしたか。
Morgen [Gould]
今日はGouldのお誕生日です。
「 あした 」
4つの歌 Op.27より
そしてあした、太陽は再び輝くでしょう
そして私の歩いてゆく歩道を照らし
私を再びあの人に会わせ、幸せにしてくれるでしょう
光に満ちたこの地上で...
Gouldの憧れの女性、エリーザベト・シュヴァルツコップとの幻の共演です。
こんなに美しい録音が長い間お蔵入りになっていました。
こんな珍しいアウト・テイクも公開されています。
オフィーリアの3つの歌ですね。
シュヴァルツコップは本当に素晴らしい。
しかし、彼女との共演はこの3つの歌以外は世に出ませんでした。
そう言えば、
Gouldの愛読書「草枕」の主人公も、オフィーリアを描こうとしていましたっけ。
しかしどうしても描くことができず、スケッチブックを広げても出てくるのは俳句ばかりでした。
Gouldにも漱石にも手が届かなかったオフィーリア。
Gouldのオフィーリア、シュヴァルツコップさんは7年ほど前に90歳でこの世を去りました。
「夕映えの中で…」
ぼくたちは苦しいときも嬉しいときも
手に手を取って歩んできた。
でも、もう彷徨うのはやめて静かな土地で休もう。
空は黄昏れてきて、二羽のヒバリが霧の中に昇って行く。
ヒバリには歌っていてもらおう、すぐ眠りの時が来る。
Happy birthday ,Glenn.
81回目のお誕生日に。
La Danse Macabre_死の舞踏 [Gould]
モーリス・ラヴェルの舞踏詩『ラ・ヴァルス』
ラヴェルは初版の楽譜に次のような標題を添えています。
「渦巻く雲の中から、ワルツを踊る男女がかすかに浮かび上がって来よう。雲が次第に晴れ上がる。と、A部において、渦巻く群集で埋め尽くされたダンス会場が現れ、その光景が少しずつ描かれていく。B部のフォルティッシモでシャンデリアの光がさんざめく。1855年ごろのオーストリア宮廷が舞台である。」
ラヴェルは第一次世界大戦に従軍しています。
その時の写真を見たことがありますが、軍服が全く板についていなくて何となく滑稽で哀しい姿でした。
砲弾の下をかいくぐって資材を運ぶトラック輸送兵としての辛い経験は彼に重いストレス障害をもたらし、
またその頃、彼は最愛のお母さんを亡くしています。
辛く悲しい時期、この作品はそんな頃に書かれています。
ウィーンの華麗な舞踏会を描いているはずのこの曲は、しかし、退廃的で暗い影に覆われています。
不安定な転調を繰り返し、軽やかなワルツのステップが徐々に乱れ崩壊し、突然終止します。
華やかな貴族社会の終焉を予告するような不気味なエンディング。
まさに、このワルツは死の舞踏なのですね。
Gouldの演奏がとても面白い。
ラヴェル自身のピアノ版編曲に、さらにGouldが手を加えたGould校訂版「ラ・ヴァルス」です。
おどろおどろしい無調の響きから立ち上ってくる死の舞踏。
鋭いリズム感から紡ぎだされるワルツのリズムは、けれども決してワルツを歌わず、
幻想的な色彩感をも排除して徹底してクールです。
とてもカッコイイ。
この曲はもともと彼の「シルバー・ジュビリー・アルバム」の中の「グレン・グールド・ファンタジー」に収められているものです。
このアルバムは強烈ですよ。(笑)
彼のデビュー25周年記念盤なのですが、
タイトルの「シルバー・ジュビリー」はホロヴィッツの「ゴールデン・ジュビリー」に対する当て付けらしい。
「グレン・グールド・ファンタジー」の中ではホロヴィッツが12年のブランクを経てステージに返り咲いたライヴ「ヒストリック・リターン」に当て付けて、Gouldもステージに返り咲く「ヒステリック・リターン」の模様が繰り広げられます。
ステージの場所は北極の油田採掘場。
ブリザードがビュービュー吹き荒れる中彼は「ラ・ヴァルス」を演奏するのです。
途中大波に自慢のイスを流され、それでも中断することなく膝をついて演奏を続ける彼の雄姿。
演奏が終わると観客のアザラシたちが、「モワッ!モワ~ッ!!」と声援を送りながら尾ひれを叩いて拍手をするんです。
「サンキュー、サンキュー。」と答える嬉しそうなGouldには爆笑しましたよ。
ラヴェルは初版の楽譜に次のような標題を添えています。
「渦巻く雲の中から、ワルツを踊る男女がかすかに浮かび上がって来よう。雲が次第に晴れ上がる。と、A部において、渦巻く群集で埋め尽くされたダンス会場が現れ、その光景が少しずつ描かれていく。B部のフォルティッシモでシャンデリアの光がさんざめく。1855年ごろのオーストリア宮廷が舞台である。」
ラヴェルは第一次世界大戦に従軍しています。
その時の写真を見たことがありますが、軍服が全く板についていなくて何となく滑稽で哀しい姿でした。
砲弾の下をかいくぐって資材を運ぶトラック輸送兵としての辛い経験は彼に重いストレス障害をもたらし、
またその頃、彼は最愛のお母さんを亡くしています。
辛く悲しい時期、この作品はそんな頃に書かれています。
ウィーンの華麗な舞踏会を描いているはずのこの曲は、しかし、退廃的で暗い影に覆われています。
不安定な転調を繰り返し、軽やかなワルツのステップが徐々に乱れ崩壊し、突然終止します。
華やかな貴族社会の終焉を予告するような不気味なエンディング。
まさに、このワルツは死の舞踏なのですね。
Gouldの演奏がとても面白い。
ラヴェル自身のピアノ版編曲に、さらにGouldが手を加えたGould校訂版「ラ・ヴァルス」です。
おどろおどろしい無調の響きから立ち上ってくる死の舞踏。
鋭いリズム感から紡ぎだされるワルツのリズムは、けれども決してワルツを歌わず、
幻想的な色彩感をも排除して徹底してクールです。
とてもカッコイイ。
この曲はもともと彼の「シルバー・ジュビリー・アルバム」の中の「グレン・グールド・ファンタジー」に収められているものです。
このアルバムは強烈ですよ。(笑)
彼のデビュー25周年記念盤なのですが、
タイトルの「シルバー・ジュビリー」はホロヴィッツの「ゴールデン・ジュビリー」に対する当て付けらしい。
「グレン・グールド・ファンタジー」の中ではホロヴィッツが12年のブランクを経てステージに返り咲いたライヴ「ヒストリック・リターン」に当て付けて、Gouldもステージに返り咲く「ヒステリック・リターン」の模様が繰り広げられます。
ステージの場所は北極の油田採掘場。
ブリザードがビュービュー吹き荒れる中彼は「ラ・ヴァルス」を演奏するのです。
途中大波に自慢のイスを流され、それでも中断することなく膝をついて演奏を続ける彼の雄姿。
演奏が終わると観客のアザラシたちが、「モワッ!モワ~ッ!!」と声援を送りながら尾ひれを叩いて拍手をするんです。
「サンキュー、サンキュー。」と答える嬉しそうなGouldには爆笑しましたよ。
Gould on TV ② [Gould]
Bachを語るGould。
この動画はとても興味深いです。
1962年にカナダのCBCで放映された「Glenn Gould on Bach」というTV番組からの映像です。
内容の一部は既にいろいろなところで公開されていましたが、全内容が出てきたのは1年半ほど前です。
↓このDVDに収録されています。
私はまだ購入していません
3万円もするし。。。高いの。。。
ここでGouldが語っていることは、どの言葉もとても興味深いのですが、
中でも私が感動したことをいくつか記録しておこうと思います。
1.Bachとは・・・・
Bachの晩年、世の中の流れは変わり始めていた。
バロック時代とは、科学の有用性と人間の持つ誇るべき素質(信仰の魔術的、神秘的で畏敬すべき典礼)とが、まだ共存できる時代だった。
人間の意志と冷酷な運命の力の間に調停を求める力強い精神的な譲歩が、そこにはあった。
しかし時は変わり、論理的であることを求める世界、新しい若い発想を求める時代がやってくる。
音楽活動の拠点が教会から劇場へと移行していく時代。
新しい芸術が合理的な世界を合理的に反映する時代がやってきたのだ。
新しい時代には新しい音楽様式が生まれた。
Bachが亡くなった時、巨匠と呼ばれたのは彼ではなく彼の息子たちだった。
新しい音楽様式の下地作りをしたのは、他ならぬ彼の息子たちとその仲間・・・ヨゼフ・ハイドンなど・・・だった。
そして生まれた新しい音楽形式・・・交響曲とソナタは、簡略化され明確化された機能和声の世界に依存するようになっていく。
しかしBachは新しい時代に歩調を合わせることはせず、自分の信念を守り通した。
集団的な歴史プロセスの外に立つ独立独歩の芸術的良心を貫いた最大の頑固者なのだ。
2.Bachの素晴らしさとは・・・・
Bachは簡潔な和声的効果や隣り合う主題の明確な定義などはしなかったが、彼の和声は並外れて複雑で豊かである。
その音楽には永遠にうねり続ける和声的運動の流れがあり、たくさんの旋律線が複雑に絡み合って、あたかも、いつまでも安定を得られない人間のあり様を示唆しているようにも思える。
彼の音楽の中に私たちが期待するのは、大きな驚きの瞬間や表現というものではなく、事象の恒常性、発展の線的継続性、運動の確実性だ。
そもそもBachにとっての芸術とは、信仰の何なるかを表現する手段だったのだ。
無心に導かれるように何かを体験し、普遍で完全なる存在が現世の困難や誘惑に阻まれ、それでも必ずやその誘惑に打ち勝って乗り越えてゆく・・・そこに波乱万丈な人生のドラマが生まれる。
信仰の何なるかとはそういうことだ。
3.カンタータ「いざ罪に抗すべし」
Bachは、ある種の表現のために和声的な大きな冒険をすることがある。
それは16世紀のジュズアルド以降消え去られていて、20世紀のシェーンベルクまで現れることのなかった語法である。
(出た!ジュズアルド。私、思春期の頃にすごくはまったことがありました。意味もわからずもっぱら感覚的な好き嫌いの域ですけれど。
この美しくも不安定な半音階進行が沢山の不協和音や対斜を生むんです。
ここでのシェーンベルクで私が思い起こすのは、「浄夜」。Gouldはシェーンベルクを偉大なBachの後継者とよんでいました。
素晴らしい作品。)
カンタータ5番のテキストからは、人生の誘惑やそれを排除するために求められる絶え間ない努力といったものを受け取ることができる。
冒頭の和音は、Bachが持つ数々の和音の中で最も力強い和音の一つだ。
最初と最後の楽章は、対斜と掛留に満ち溢れていて、これらは一番深く一番激しい感情を抱いている主題のためのBachの取って置きの技法なのだ。
(当時は、ポドキー教授のバッハ論が話題になっていた頃なのでしょうか。いわゆる14はBachを表す数字であるとか、五度圏上の対角線は十字架音型であるとか・・・ちょっとダ・ヴィンチ・コードちっくな推理が流行っていた頃かもしれません。面白くて私も好きなのですが、Gouldはダメって言っています。)
しかし、Bachのカンタータの絵画的な特徴を強調するのは大変危険だ。
例えばこの冒頭のフレーズを劇的に見ると、属11の和音は魂の清廉を求める戦いの緊張と不協和を示し、主和音による解決は精神的な勝者を待つ安心感の境地であるとか、冒頭の和音は犠牲、戦いを求める迷惑な態度を意味し、主和音による解決は魂の安らぎと快楽を表すとか・・・・
Bachの神学的立場にどれほどの確信が得られようとも、彼が終始一貫して音の建築家であったという事実に間違いはない。
彼が私たちにとってかけがえのない存在である理由は、彼が疑いなく史上最大の音の建築家であったからに他ならない。
4.集大成としてのBach
Bachの音楽は、ルネサンス初期以来のヨーロッパ北部の巨匠たちが実践したあらゆる手法の総括である。
彼は、ドイツ、オランダ、フランドルの長い系譜の一番最後に位置している。
長調と短調に集約されたために限界が生じたとかつて考えられていた調性の概念から、活力のある和声を生み出そうとしていた人々の一番最後に。
Bachの和声的発想は、彼の生まれる1~2世紀前、音楽史上最も不安定な過渡期を含む時代の調体系に由来している。
Bachが用いた洗練された線的技法はすべて、本質的にはルネサンス時代の作曲家達によって発展、完成されてきたものだ。
では何故、彼の音楽があれほどまでに胸にせまるのか。
Bachはドイツ人であるがゆえに、初期バロックの対抗する二つの勢力の狭間に立っていた。
一つは北の勢力・・・対位法的な様式が元来声楽の前提にあるオランダ、フランドルの伝統。
もう一つは南の勢力・・・器楽様式の流麗な多様性を根源とするイタリア。
人生の終わりに近づくにつれて、Bachは対立しあう2つの音楽様式を結合させて感動的な新しい様式を展開させた。
そこでは、器楽様式の鋭敏さと幅広さ、声楽様式の簡潔性と純粋性が結びついている。
(ここで、彼が弾いているフレーズを是非聴いてください。31:53ころからです)
聞き覚えがありますか?これはコラールではありません。
ブランデンブルグ協奏曲5番の冒頭を和声進行にしたものです。
このように彼は、当時最も洗練されたイタリア的な形式においてさえ、ドイツ・コラールの書法を裏付ける和声的純粋さや思考の明快さを構造の支柱に据えているのだ。
ブランデンブルグ協奏曲はとても優雅で、イタリア的器楽書法の形式的バランスを持っている。
そうした特徴を持ちながらも、中心には多面性を与える多声的な性格の素晴らしい感覚を持っている。
・・・・・・・
以上(かなり省略)
これは、Gouldが29歳の時の映像です。
よくよく勉強して研究して、理解して、さらに自分自身の見解を持っていることに感動します。
「アナリーゼ講座」で、よく先生がフィッシャーやケンプの素晴らしさを教えてくださいますが、
ただ一言、プロってすごいんだな・・・と。
巧みな演奏力は勿論のこと、楽曲の分析、時代考証、作曲家の理解、思想・・・・全てを包括した上でさらに自分の見解をきちんと立証できる。
自分がプロの演奏家であると名乗れるのは、こうした凄い裏づけを持っているからなんですね~。
この動画はとても興味深いです。
1962年にカナダのCBCで放映された「Glenn Gould on Bach」というTV番組からの映像です。
内容の一部は既にいろいろなところで公開されていましたが、全内容が出てきたのは1年半ほど前です。
↓このDVDに収録されています。
私はまだ購入していません
3万円もするし。。。高いの。。。
ここでGouldが語っていることは、どの言葉もとても興味深いのですが、
中でも私が感動したことをいくつか記録しておこうと思います。
1.Bachとは・・・・
Bachの晩年、世の中の流れは変わり始めていた。
バロック時代とは、科学の有用性と人間の持つ誇るべき素質(信仰の魔術的、神秘的で畏敬すべき典礼)とが、まだ共存できる時代だった。
人間の意志と冷酷な運命の力の間に調停を求める力強い精神的な譲歩が、そこにはあった。
しかし時は変わり、論理的であることを求める世界、新しい若い発想を求める時代がやってくる。
音楽活動の拠点が教会から劇場へと移行していく時代。
新しい芸術が合理的な世界を合理的に反映する時代がやってきたのだ。
新しい時代には新しい音楽様式が生まれた。
Bachが亡くなった時、巨匠と呼ばれたのは彼ではなく彼の息子たちだった。
新しい音楽様式の下地作りをしたのは、他ならぬ彼の息子たちとその仲間・・・ヨゼフ・ハイドンなど・・・だった。
そして生まれた新しい音楽形式・・・交響曲とソナタは、簡略化され明確化された機能和声の世界に依存するようになっていく。
しかしBachは新しい時代に歩調を合わせることはせず、自分の信念を守り通した。
集団的な歴史プロセスの外に立つ独立独歩の芸術的良心を貫いた最大の頑固者なのだ。
2.Bachの素晴らしさとは・・・・
Bachは簡潔な和声的効果や隣り合う主題の明確な定義などはしなかったが、彼の和声は並外れて複雑で豊かである。
その音楽には永遠にうねり続ける和声的運動の流れがあり、たくさんの旋律線が複雑に絡み合って、あたかも、いつまでも安定を得られない人間のあり様を示唆しているようにも思える。
彼の音楽の中に私たちが期待するのは、大きな驚きの瞬間や表現というものではなく、事象の恒常性、発展の線的継続性、運動の確実性だ。
そもそもBachにとっての芸術とは、信仰の何なるかを表現する手段だったのだ。
無心に導かれるように何かを体験し、普遍で完全なる存在が現世の困難や誘惑に阻まれ、それでも必ずやその誘惑に打ち勝って乗り越えてゆく・・・そこに波乱万丈な人生のドラマが生まれる。
信仰の何なるかとはそういうことだ。
3.カンタータ「いざ罪に抗すべし」
Bachは、ある種の表現のために和声的な大きな冒険をすることがある。
それは16世紀のジュズアルド以降消え去られていて、20世紀のシェーンベルクまで現れることのなかった語法である。
(出た!ジュズアルド。私、思春期の頃にすごくはまったことがありました。意味もわからずもっぱら感覚的な好き嫌いの域ですけれど。
この美しくも不安定な半音階進行が沢山の不協和音や対斜を生むんです。
ここでのシェーンベルクで私が思い起こすのは、「浄夜」。Gouldはシェーンベルクを偉大なBachの後継者とよんでいました。
素晴らしい作品。)
カンタータ5番のテキストからは、人生の誘惑やそれを排除するために求められる絶え間ない努力といったものを受け取ることができる。
冒頭の和音は、Bachが持つ数々の和音の中で最も力強い和音の一つだ。
最初と最後の楽章は、対斜と掛留に満ち溢れていて、これらは一番深く一番激しい感情を抱いている主題のためのBachの取って置きの技法なのだ。
(当時は、ポドキー教授のバッハ論が話題になっていた頃なのでしょうか。いわゆる14はBachを表す数字であるとか、五度圏上の対角線は十字架音型であるとか・・・ちょっとダ・ヴィンチ・コードちっくな推理が流行っていた頃かもしれません。面白くて私も好きなのですが、Gouldはダメって言っています。)
しかし、Bachのカンタータの絵画的な特徴を強調するのは大変危険だ。
例えばこの冒頭のフレーズを劇的に見ると、属11の和音は魂の清廉を求める戦いの緊張と不協和を示し、主和音による解決は精神的な勝者を待つ安心感の境地であるとか、冒頭の和音は犠牲、戦いを求める迷惑な態度を意味し、主和音による解決は魂の安らぎと快楽を表すとか・・・・
Bachの神学的立場にどれほどの確信が得られようとも、彼が終始一貫して音の建築家であったという事実に間違いはない。
彼が私たちにとってかけがえのない存在である理由は、彼が疑いなく史上最大の音の建築家であったからに他ならない。
4.集大成としてのBach
Bachの音楽は、ルネサンス初期以来のヨーロッパ北部の巨匠たちが実践したあらゆる手法の総括である。
彼は、ドイツ、オランダ、フランドルの長い系譜の一番最後に位置している。
長調と短調に集約されたために限界が生じたとかつて考えられていた調性の概念から、活力のある和声を生み出そうとしていた人々の一番最後に。
Bachの和声的発想は、彼の生まれる1~2世紀前、音楽史上最も不安定な過渡期を含む時代の調体系に由来している。
Bachが用いた洗練された線的技法はすべて、本質的にはルネサンス時代の作曲家達によって発展、完成されてきたものだ。
では何故、彼の音楽があれほどまでに胸にせまるのか。
Bachはドイツ人であるがゆえに、初期バロックの対抗する二つの勢力の狭間に立っていた。
一つは北の勢力・・・対位法的な様式が元来声楽の前提にあるオランダ、フランドルの伝統。
もう一つは南の勢力・・・器楽様式の流麗な多様性を根源とするイタリア。
人生の終わりに近づくにつれて、Bachは対立しあう2つの音楽様式を結合させて感動的な新しい様式を展開させた。
そこでは、器楽様式の鋭敏さと幅広さ、声楽様式の簡潔性と純粋性が結びついている。
(ここで、彼が弾いているフレーズを是非聴いてください。31:53ころからです)
聞き覚えがありますか?これはコラールではありません。
ブランデンブルグ協奏曲5番の冒頭を和声進行にしたものです。
このように彼は、当時最も洗練されたイタリア的な形式においてさえ、ドイツ・コラールの書法を裏付ける和声的純粋さや思考の明快さを構造の支柱に据えているのだ。
ブランデンブルグ協奏曲はとても優雅で、イタリア的器楽書法の形式的バランスを持っている。
そうした特徴を持ちながらも、中心には多面性を与える多声的な性格の素晴らしい感覚を持っている。
・・・・・・・
以上(かなり省略)
これは、Gouldが29歳の時の映像です。
よくよく勉強して研究して、理解して、さらに自分自身の見解を持っていることに感動します。
「アナリーゼ講座」で、よく先生がフィッシャーやケンプの素晴らしさを教えてくださいますが、
ただ一言、プロってすごいんだな・・・と。
巧みな演奏力は勿論のこと、楽曲の分析、時代考証、作曲家の理解、思想・・・・全てを包括した上でさらに自分の見解をきちんと立証できる。
自分がプロの演奏家であると名乗れるのは、こうした凄い裏づけを持っているからなんですね~。
Gould on TV [Gould]
GouldもCD318(彼のピアノ)も絶好調の時の映像ですね。
私はこの動画が大好き。
この曲が嫌いと言ってたくせに、こんな素晴らしい演奏をしたりするんだ。
オープニングの弾き方が変わっているとよく言われますけど、でもこれって楽譜通りじゃありません?
鍵盤の上に置かれた手の形とか、指使いとか、私にとっては驚異なんです。
どんな音型を弾くときも手の甲がひっくり返ったり捩れたりしないんですよ。
無駄な動きは一切なく確実に打鍵する。
そしてどの音も芯をしっかりつかんで、硬質な透明な響きでキラキラしています。
以前、クリアでしっかりした音を素早く打鍵するにはどうしたらいいんですか?と尋ねられ、
さぁ・・・気合じゃない?と答えて、その方にスクールを退会されてしまったことを思い出します。
でも、やっぱり私はそう思います。
気合と執念だ。
高い木の枝から実をもぎ取る猿のような・・・と言われようとも、この演奏スタイルで彼は滅茶苦茶美しい響きを生み出したんだ。
猿だって牛だって構わない・・・いや、牛はヒヅメだから多少困る。
コンサート活動をドロップアウトしてスタジオに篭った彼ですが、
演奏の素晴らしさは勿論、視覚的にもとても人を惹きつけるものを持っていて、
やはり時々テレビでこういう演奏の姿を見せてくれたのはよかったなぁ、と思います。
本人は凄く真剣なのですが、ひとつひとつの動作がとってもキュート。
出番がない時はオケの方を向いて全身で指揮者を見ちゃったり、
鍵盤から手が離れる時は、どんなに短い間でも手をひざの上に戻そうとしたり、
勢いあまって飛び上がってタイミングをはずしちゃったり、
例のイスのボロボロのシートが丸見えになっちゃたり、
クールなスタジオ録音盤からは想像もつかない活き活きとした姿がとても素敵です。
最近、彼のテレビ映像が次々と公開されるようになって思うんですが、
ステージでのコンサート活動がイヤだっただけで、この人は何気に出たがりなのではないの?
↓こんなところに、チラッと出てきたり。これってしばらくたってから妙に可笑しくなる。
再生できない場合、ダウンロードは🎥こちら
パリのエスプリから程遠いGouldがプーランク?と思って見ていると変なおじいちゃんが・・・・
余談ですが、
今年はプーランクの没後50年ですね。
ということは楽譜とかもろもろ、パブリック・ドメインになるのかな。
ただ、日本はダメなんですよね。
戦時加算というのがあるから。10年くらい先延ばしになる。
戦争に負けると、こんなことにも影響が出てくるんですね。
'Siegfried Idyll'......練習の記録 [Gould]
ただ今、Gouldが編曲した「ジークフリート牧歌」と、格闘中です。
そう、まさに格闘中です。
やっとやっと、どうにかこうにか音がとれるようになってきました。
おいおい、1週間もかかってしまったぞ
これ、本当にむずかしい・・・
何がむずかしいって、この人の楽譜を読み解くのが非常に難儀なんです。
私のはかなげな脳細胞には、かなり過酷なんですよね・・・・
一応ピアノ譜の形はとっていますが、右手と左手の区別はないに等しいです。
運指も手の指定もないので悩むことしきり。
メロデイーを両手分割でとったり、左が右を越えて、右が左をくぐって、左が3声分を担当しながら
メロディーの一部に参加したり・・・・もつれるの。
オーケストラ譜を見ながら弾いているのとあまりかわらないんじゃないの?と、思う。
参考に、オーケストラ譜も見てみました。
そして、いろいろなことに気がつきました。
基本、原譜に非常に忠実に編曲してあって、それを10本の指で最大限再現できるように
とてもセンスよくまとめられていることがわかりました。
所謂ピアノ・アレンジにありがちな、華麗な装飾とか派手な演出は一切なく、原曲そのものの響きにこだわっているところがまた素敵です。
弦楽器の長~い音なども、トリルやトレモランドにせず、ポツンと一音だけ。
低音をポツンと置くと、その間に他のパートの旋律を重ねていくものだから、一音一音の意味と成り行きを把握していないとぐっちゃぐちゃになってしまいます。
確か以前にも書きましたが、Gouldがピアノ編曲について語っているインタビューがありまして、
そのポリシーが今、はっきりわかってきました。
重複しますが、もう一度載せておきます。
●左手の音をオクターヴで轟かせることはしない。
左手のベースラインをオクターヴ取りで、ダダダッと鳴らす手法。
リストやブゾーニがBachのオルガン曲を編曲する時に良く使う手法ですが、音の透明感や指の独立を妨げるからよろしくない。
見た目には凄そうですが、「ママ見て、手放しで乗れるよ!」的な効果を発揮するだけで、音楽的には意味がないと言っています。
●ロング・トーンはトレモランドにしない。
これもリストがよく使う手法ですが、これは使わない。
リストは、ひどい時には左手ばかりでなく、右手までもトレモランドさせていて、まるで近所のセイディーおばさんが自宅のリビングでアップライト・ピアノを嬉々としてかき鳴らしているようでいやなのだそうです。
●ピアノに精通した人がオーケストラ曲を作るとどうなるのか、と逆に推測する。
ピアノの音は減衰音であるのだから、再現するにはどうしても制約が出てきます。
まず、音が減衰していくことも考えずにいつまでも和音を押さえておかない、
弦のパートで和音がだんだん音量を増して行くのを期待してはいけない、という決まりを予め作り、その代わりの手法として、モティーフに時間的なズレを施してテーマが止まることがないように、などの工夫したのだそうです。
う~~ん・・・究極の凝り性ですね。
こんなにこだわって心を込めて編曲されているのを知って、もっともっと頑張らねばと思いました。
大切な楽譜、感謝しながら心を込めて弾かせていただきます。
彼は後に、実際にオーケストラを指揮してこの曲を録音していますが、
私は断然、このピアノ版が好きです。
作曲家や指揮者になりたかったピアニスト。
自分はピアニストではない、と言うピアニスト。
だから他の誰とも違うピアニストとして、彼は素晴らしいのだと思います。
おまけ
昔よく聴いていたレコードがyoutubeにありました。
チェリビダッケ
そう、まさに格闘中です。
やっとやっと、どうにかこうにか音がとれるようになってきました。
おいおい、1週間もかかってしまったぞ
これ、本当にむずかしい・・・
何がむずかしいって、この人の楽譜を読み解くのが非常に難儀なんです。
私のはかなげな脳細胞には、かなり過酷なんですよね・・・・
一応ピアノ譜の形はとっていますが、右手と左手の区別はないに等しいです。
運指も手の指定もないので悩むことしきり。
メロデイーを両手分割でとったり、左が右を越えて、右が左をくぐって、左が3声分を担当しながら
メロディーの一部に参加したり・・・・もつれるの。
オーケストラ譜を見ながら弾いているのとあまりかわらないんじゃないの?と、思う。
参考に、オーケストラ譜も見てみました。
そして、いろいろなことに気がつきました。
基本、原譜に非常に忠実に編曲してあって、それを10本の指で最大限再現できるように
とてもセンスよくまとめられていることがわかりました。
所謂ピアノ・アレンジにありがちな、華麗な装飾とか派手な演出は一切なく、原曲そのものの響きにこだわっているところがまた素敵です。
弦楽器の長~い音なども、トリルやトレモランドにせず、ポツンと一音だけ。
低音をポツンと置くと、その間に他のパートの旋律を重ねていくものだから、一音一音の意味と成り行きを把握していないとぐっちゃぐちゃになってしまいます。
確か以前にも書きましたが、Gouldがピアノ編曲について語っているインタビューがありまして、
そのポリシーが今、はっきりわかってきました。
重複しますが、もう一度載せておきます。
●左手の音をオクターヴで轟かせることはしない。
左手のベースラインをオクターヴ取りで、ダダダッと鳴らす手法。
リストやブゾーニがBachのオルガン曲を編曲する時に良く使う手法ですが、音の透明感や指の独立を妨げるからよろしくない。
見た目には凄そうですが、「ママ見て、手放しで乗れるよ!」的な効果を発揮するだけで、音楽的には意味がないと言っています。
●ロング・トーンはトレモランドにしない。
これもリストがよく使う手法ですが、これは使わない。
リストは、ひどい時には左手ばかりでなく、右手までもトレモランドさせていて、まるで近所のセイディーおばさんが自宅のリビングでアップライト・ピアノを嬉々としてかき鳴らしているようでいやなのだそうです。
●ピアノに精通した人がオーケストラ曲を作るとどうなるのか、と逆に推測する。
ピアノの音は減衰音であるのだから、再現するにはどうしても制約が出てきます。
まず、音が減衰していくことも考えずにいつまでも和音を押さえておかない、
弦のパートで和音がだんだん音量を増して行くのを期待してはいけない、という決まりを予め作り、その代わりの手法として、モティーフに時間的なズレを施してテーマが止まることがないように、などの工夫したのだそうです。
う~~ん・・・究極の凝り性ですね。
こんなにこだわって心を込めて編曲されているのを知って、もっともっと頑張らねばと思いました。
大切な楽譜、感謝しながら心を込めて弾かせていただきます。
彼は後に、実際にオーケストラを指揮してこの曲を録音していますが、
私は断然、このピアノ版が好きです。
作曲家や指揮者になりたかったピアニスト。
自分はピアニストではない、と言うピアニスト。
だから他の誰とも違うピアニストとして、彼は素晴らしいのだと思います。
おまけ
昔よく聴いていたレコードがyoutubeにありました。
チェリビダッケ
Aimez-vous Wagner? [Gould]
ワーグナーの音楽はとても好きなのですが、
心から共感できるか、と問われるとちょっと躊躇してしまう。
その神秘的で美しい音楽の後ろに、退廃的で排他的で背徳的で・・・・どす黒い何かを感じてしまうからかもしれません。
かつてのバイエルンの王様を狂わし、ヒトラーに熱狂的に支持された音楽。
ワーグナーの好き度は、体内にある男性ホルモンの含有量の度合いに比例するのではないか。
闘争心、征服欲、野望・・・・
ワーグナーの楽劇は、神話の世界を借りて現実世界のダークな部分を煽っていると思う。
そんな中でも心から大好き!と思える曲があります。
それは、「ジークフリート牧歌」
昔、クリスマスの朝には必ず父がこの曲を流していて、耳にこびりついてしまった。
野山にこだまする角笛の響きや、ジークフリートが小鳥と対話するシーンが大好きで、
今でも聴くたびにうっとりします。
小編成のオーケストラで演奏されるので、ひとつひとつのパートのラインをしっかり追うことができて、
対位法を勉強するようになると、その作曲技術の凄さがよくわかるようになって、
ワーグナーって凄いんだなぁ、と思うわけです。
その作曲技術の凄さがより深く理解できたのが、Gouldの編曲したピアノ版の演奏でした。
ピアノ一本の演奏なのに、オーケストラのように饒舌で、本当に美しいんです。
何年か前にその楽譜を入手して、自分も弾いてみようと思ったことがあります。
でも、
滅茶苦茶難しいんですよ~。
四苦八苦しながら音を追い続けているうちに、なんだか恐ろしくなってきました。
うまく表現できないのですが、
深く黒い水の中に引きずり込まれるような・・・
メロディーが複雑に交差する音の渦の向こう側に、何かがいる。
その何かが、チラッと見えたような・・・・
怖い!と思って練習をやめてしまった。
今年はですね、それをなんとか弾いて見ようと思っているのです。
今年は大丈夫、怖くないのですよ。
強力な「おまもり」をゲットしましたから。
それはですね、
ジャカジャン!
ぐーるどかれんだぁー!!(ドラえもんの声で)
これがあれば、大丈夫だし。
ピアノの向こう側に立てかけて「護符」代わりにして練習をはじめました。
ところがですね。
じっと見られているのがまた、居心地悪くて。
「あーっ、そこ違う!」
とか
「なにそれ~~!」
とか言われてしまうような気がして。
なので、
7月を常駐させることにしました。
むこう向いて寝てくれてるし。
今年はこの曲に再チャレンジして不況を乗り越えようと考えております。
心から共感できるか、と問われるとちょっと躊躇してしまう。
その神秘的で美しい音楽の後ろに、退廃的で排他的で背徳的で・・・・どす黒い何かを感じてしまうからかもしれません。
かつてのバイエルンの王様を狂わし、ヒトラーに熱狂的に支持された音楽。
ワーグナーの好き度は、体内にある男性ホルモンの含有量の度合いに比例するのではないか。
闘争心、征服欲、野望・・・・
ワーグナーの楽劇は、神話の世界を借りて現実世界のダークな部分を煽っていると思う。
そんな中でも心から大好き!と思える曲があります。
それは、「ジークフリート牧歌」
昔、クリスマスの朝には必ず父がこの曲を流していて、耳にこびりついてしまった。
野山にこだまする角笛の響きや、ジークフリートが小鳥と対話するシーンが大好きで、
今でも聴くたびにうっとりします。
小編成のオーケストラで演奏されるので、ひとつひとつのパートのラインをしっかり追うことができて、
対位法を勉強するようになると、その作曲技術の凄さがよくわかるようになって、
ワーグナーって凄いんだなぁ、と思うわけです。
その作曲技術の凄さがより深く理解できたのが、Gouldの編曲したピアノ版の演奏でした。
ピアノ一本の演奏なのに、オーケストラのように饒舌で、本当に美しいんです。
何年か前にその楽譜を入手して、自分も弾いてみようと思ったことがあります。
でも、
滅茶苦茶難しいんですよ~。
四苦八苦しながら音を追い続けているうちに、なんだか恐ろしくなってきました。
うまく表現できないのですが、
深く黒い水の中に引きずり込まれるような・・・
メロディーが複雑に交差する音の渦の向こう側に、何かがいる。
その何かが、チラッと見えたような・・・・
怖い!と思って練習をやめてしまった。
今年はですね、それをなんとか弾いて見ようと思っているのです。
今年は大丈夫、怖くないのですよ。
強力な「おまもり」をゲットしましたから。
それはですね、
ジャカジャン!
ぐーるどかれんだぁー!!(ドラえもんの声で)
これがあれば、大丈夫だし。
ピアノの向こう側に立てかけて「護符」代わりにして練習をはじめました。
ところがですね。
じっと見られているのがまた、居心地悪くて。
「あーっ、そこ違う!」
とか
「なにそれ~~!」
とか言われてしまうような気がして。
なので、
7月を常駐させることにしました。
むこう向いて寝てくれてるし。
今年はこの曲に再チャレンジして不況を乗り越えようと考えております。
Conversation with Bruno [Gould]
今年も残すところ、あと1日となりましたね。
皆さんにとって、今年一年はどんな年でしたでしょうか。
私にとって、今年最もうれしかったこと。
それは、ずっと念願だった、↓
このビデオがDVD化されて発売されたことです。
これです。
もう、その素晴らしい内容には大拍手!!です。
これは宝物。
火事になったら真っ先に持って逃げる。
その中でちょっと面白い部分があって、
Gouldの毒舌が炸裂していて、
これは年末を飾るに相応しい、と思ったのでupしておきます。
「ベートーヴェンの中期批判を蒸し返すのはやめておくよ。
第5交響曲の尊大さ、ヴァイオリン・コンチェルトの陳腐さ、熱情ソナタの空疎さをいくら力説しても
無駄みたいだから。
議論をするのはやめておくよ。主張したって徒労におわるのはわかっているから。
例えばこれ、(と、「皇帝」の1フレーズを弾いて見せて)
このつまらないテーマ。(ジャンク!と言っています^^)
ベートーヴェンの性格は面白いよ。
中期にあれだけの駄作を書きながら、自分の正当性を信じて疑わなかった。
あきれるよ。
ほとんどの作曲家にはあんな才能はないよ。あんな厚顔無恥にはなれないよ。
自分でも納得できないから聴衆にも支持されないんだ。
大抵の作曲家は、ベートーヴェンより気が弱い・・・・・・」
ヾ(^▽^*おわはははっ!!
皆さん、良いお年をお迎えくださいませ。
来年も、どうぞ宜しくお願いいたします。
80回目の9月25日 [Gould]
何年か前に、初めてi-padが発売された時、
真っ先に思ったのは、楽譜を沢山取り込んで持ち歩きたいということでした。
これさえあれば、何冊も楽譜をカバンに詰め込んでヨタヨタ歩かないで済むじゃない。
でも実際は、そんなに使い勝手が良いわけでもなく、
机の上に置いて見るには良いけれども、譜面台の上では活躍しない。
譜めくりのタイミングで画面をタップするのは、実際の楽譜をめくるよりやりにくい。
そのうち、人間の目の動きを感知するセンサーとかが装備されて、
目の動きに合わせてページをめくってくれるとか、そんな機能が開発されそうですね。
アシュケナージ親子の、ピアノ・デュオのコンサートでは、実際に息子さんの方がi-padを
譜面台に載せたそうですね。
でも、譜めくりさんはちゃんと付き添っていて、譜めくりの代わりに譜タップをしていたとか・・・
う~ん・・・
無意味に思えるが。。。
映像的にはカッコ悪いかも。。。
ニューヨーク・タイムスにはこんな写真が載っていましたよ。
チェンバロの上にi-pad。
ミス・マッチで、これもなんだかな。
チェンバロ弾いて、i-padをタップしながら指揮もして・・・
記事によると、この画像は「スイッチド・オン・バッハ」のジャケットを彷彿させると書いてありました。
それも、どうでしょう?
私、このアルバムのジャケット写真はとてもイケてると思うんだけど。
ムーグ・シンセサイザーで再現されるBach。
Gouldは、10年に一枚のレコードだ!と絶賛していて、たしかライナーノートも書いていたはず。
実際このアルバムは、後にベスト・セラーになったのだそうです。
(余談ですけど、このカルロスさん本人も後に「スイッチド」。女性になられたとか・・・)
Gouldだったら、現在のこのIT化された現状をどう見たでしょうね。
ツィッターは絶対にやっているだろうな。
つぶやきまくっているに違いない。 と、思う。
youtubeなんかも見まくっているに違いない。
ブログもやっているかも・・・
新しいアプリを開発したに違いない。
でも、i-padは譜面台に載せたりはしないよね♪
80回目のお誕生日、おめでとうございます。
真っ先に思ったのは、楽譜を沢山取り込んで持ち歩きたいということでした。
これさえあれば、何冊も楽譜をカバンに詰め込んでヨタヨタ歩かないで済むじゃない。
でも実際は、そんなに使い勝手が良いわけでもなく、
机の上に置いて見るには良いけれども、譜面台の上では活躍しない。
譜めくりのタイミングで画面をタップするのは、実際の楽譜をめくるよりやりにくい。
そのうち、人間の目の動きを感知するセンサーとかが装備されて、
目の動きに合わせてページをめくってくれるとか、そんな機能が開発されそうですね。
アシュケナージ親子の、ピアノ・デュオのコンサートでは、実際に息子さんの方がi-padを
譜面台に載せたそうですね。
でも、譜めくりさんはちゃんと付き添っていて、譜めくりの代わりに譜タップをしていたとか・・・
う~ん・・・
無意味に思えるが。。。
映像的にはカッコ悪いかも。。。
ニューヨーク・タイムスにはこんな写真が載っていましたよ。
チェンバロの上にi-pad。
ミス・マッチで、これもなんだかな。
チェンバロ弾いて、i-padをタップしながら指揮もして・・・
記事によると、この画像は「スイッチド・オン・バッハ」のジャケットを彷彿させると書いてありました。
それも、どうでしょう?
私、このアルバムのジャケット写真はとてもイケてると思うんだけど。
ムーグ・シンセサイザーで再現されるBach。
Gouldは、10年に一枚のレコードだ!と絶賛していて、たしかライナーノートも書いていたはず。
実際このアルバムは、後にベスト・セラーになったのだそうです。
(余談ですけど、このカルロスさん本人も後に「スイッチド」。女性になられたとか・・・)
Gouldだったら、現在のこのIT化された現状をどう見たでしょうね。
ツィッターは絶対にやっているだろうな。
つぶやきまくっているに違いない。 と、思う。
youtubeなんかも見まくっているに違いない。
ブログもやっているかも・・・
新しいアプリを開発したに違いない。
でも、i-padは譜面台に載せたりはしないよね♪
80回目のお誕生日、おめでとうございます。