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「聖アン」の奇跡 [音楽雑感]

ここ数週間お留守をしていましたら、記事の上に広告が載っていてビックリしました。
まめに更新しないと広告がついちゃうんですね~。

ブログを放置して何をしていたかと言いますと、オルガンの勉強に精を出していました。
家には一応オルガンがあるのですが(パイプではなく電子です、あたりまえか・・・)、今までほとんど弾くことはなく、ひたすら部屋のインテリアとしてこちらも放置、時々デモ演奏を鳴らしたりして遊ぶくらいでした。
だって、弾けないんだもの^^;
今回やっと陽の目を見た理由は、セバスチャン(私のピアノ)でどうしても弾きたくなった曲が出てきたからです。

過去にも何度かオルガン曲を自分流に編曲してみたことがあるのですが、
どうもだめだね。
オルガンとピアノは鍵盤が共通しているというだけで、ピアノから見ると最も遠い存在の楽器なんだと実感しましす。
オルガンの楽譜をただピアノでなぞるだけでは何もならない。
レジストレーションを熟知しなければ。
でも倍音の重ね方とか、音色の使い分けとか、そこには楽曲そのものだけでなく歴史とか宗教的背景とか、様々な事柄に対する理解と共感が必要になるわけで、
ひたすら難しい・・・・

出来合いのピアノ用の編曲を黙って使えばいいのでしょうけどね。
リストとかブゾーニとか、ケンプにレーガー・・・たくさん出てますけどね。
それぞれの編曲の違いを見るにつけ、何故こうなるのかとか、この和音の違いは何?とか
元の知識がないからよくわからない。
知らなすぎです。



で、頑張ってオルガンを弾いています。ヨロヨロ~っと。
オルガニストの友人がいるので、彼女にレジストレーションなどを様々伝授していただき、実際の響きを確かめながら、ピアノ用の編曲譜とにらめっこの日々が続いています。
自分なりに面白い発見もいろいろありました。


ずっと昔から好きだった曲がありまして、ピアノ用編曲があまりにも難しそうなのであきらめていたのですが、今、この時代に、どうしてもピアノで弾きたくなりました。
BWV552・・・・「聖アン」です。
楽曲の勉強も同時進行で頑張っています。


Bachは存命中にクラヴィーア練習曲集を4冊出版していますが、その第3集はオルガンのための曲集です。
全27曲中、第1曲目のフランス風序曲と最終曲のフーガをつなげたものが、BWV552の「聖アン」となります。
この第3集に対する勉強が、自分は相当随分かなり浅かった。


マリー=クレール・アランのバッハ全集の解説書に、とても興味深い一説がありました。
オリヴィエ・アラン(彼女のお兄さん)が発見したそうなのですが、
Bach所蔵のクラヴィーア練習曲集 第4巻の最後のページに14曲のカノンが、Bach自身の手で書き留められているのだそうです。
14(B+A+C+H)・・・つまりこのシリーズの巻末に記されたBachの最後の署名なんですね。

もうひとつ、
B+A+C+H=14
J.S.Bach・・・9+18+2+1+3+8=41(14の反対)
と、ここまでは知っていましたが、
J.O.H.A.N, S.E.B.A.S.T.I.A.N, B.A.C.H=158(1+5+8で14)は知りませんでした。
どこまでトータルコーディネイトなんだ・・・

数象徴を重視する曲の分析をGouldは否定していましたね。
文学的、絵画的解釈は楽曲そのものに対する理解の妨げになると。
しかしこのオルガン曲集は、明らかに「数」にこだわり、それを徹底することで統一性を持とうと試みられていると思います。
またそれはBach自身の深い信仰心の表れであり、この曲集が「オルガン・ミサ」と呼ばれる由来だと思います。

数と共にもうひとつ注意したいのが、象徴的音型です。
後年のライト・モチーフ(示導動機)と呼ばれるものに似ています。
順次進行の上昇、下降に含まれる意味、跳躍進行の上下行の意味、アルペッジョ、シンコペーション・・・等等。
これらの音型の意味は、コラールの歌詞とそのメロディーとの関係と密接に結びついています。
定型化されている表現内容も知っていなくてはならないと思いますが、ドイツ語をよくわかっていないとこれもなかなか難しい。
日本語もそうですけど、他の国の言葉には訳せない、その言葉特有のニュアンスってあるじゃないですか。
どこまで理解できるのかなと疑問ですが、6度の平行進行は神への服従だとか、アルペッジョは精霊だ、とか短絡的に結びつけてしまうのもいかがなものかと。


なので、「聖アン」を弾く為には、その間にある他の曲・・・21曲のコラール編曲(教理問答)と4つのデュエットもきちんと勉強して理解してからじゃないといけないな、と思うわけで。
果てしないぞ~・・・・

またまた引用ですが、新バッハ全集の解説には
「オルガン音楽の技術上・様式上の注目すべき多様性と、信じがたい作曲技法的困難さへの妥協のない挑戦である。」
と書いてありました。
「最大の眼目は、三位一体の神への賛美と祈願および神を巡るさまざまな教え、つまり神学と典礼の最重要項目を網羅することにあった。」
とも書いてありました。

なんか、畏れ多い・・・・





私の大好きな演奏、ハンス・ファギウスさんの演奏が、なんとYoutubeに上がっていました!

プレリュード


フーガ


凄い!



楽譜には「Organo pleno 」の指示があるのですが、ピアノで倍音を重ねるだけでは全然足らない。
こんな時助けてくれるのはシェーンベルクだったりする。










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My コンサート動画集 [私の録音( Bach )]

2012年12月に開いたコンサートは、自分にとって記念すべきものでした。
それまで、発表会や講師コンサートなど小さな集まりでの演奏はありましたが、
なにせメガ・あがり症のため、それ以上の機会を持つことはありませんでした。

プロの方たちに混ぜてもらって、生意気にも演奏会に参加した記念に記録を残そうと
知り合いの方に録画をお願いしたのですが、
これがなんと失敗・・・
今後に役立てようと思っていただけに残念でした。

ところが、その方が一生懸命に復旧を試みてくださって、動画が復活したんです。
お忙しい中、感謝です。
今日受け取りましたので、記録としてここにupしておこうと思います。
曲はすべてBachで、
① クロマティック・ファンタジー
② 幻想曲とフーガ
③ パルティータ6番

何箇所か映像がとんでしまっていますが、まぁ自分の演奏はこんなものなので十分です。




音楽的なことはさておき、
今初めて知った自分のステージ・マナーの悪さ。
ミスったときにうひゃ~と言うなとか、鼻をこするなとか、イカみたいに歩くなとか、
散々言われていたことが今ようやくわかった・・・


















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3月の憂鬱 [私の録音( Bach )]

昔から、3月という月は私にとって特別な月でした。
Bachの誕生月
母の誕生月
1日違いで、Bachとは3日違いで、自分の誕生月。


そして3年前からは、もうひとつの忘れてはならない理由から大切な月となりました。






大切な3月にむけて、いろいろな思いをたくさん込めて演奏しました。






動画の最後に載せた詩は、ソチ・オリンピックで
ロシアのフィギュア・スケート連盟が日本に送ってくれたものです。
この暖かいメッセージが少しでも多くの人の目にとまりますように。



「日本にささげる詩」

地球がいたみでうめき声を発した。
自然の強さに全世界がショックを受け
あらゆるものを水は深海に流した

しかし 何があっても太陽は東から昇る
地震と津波は光には勝てない

我々の神様が
地球の皆の命を保ってくれることを祈る

桜が咲く公園がたくさんあることを
白樺の咲く公園がたくさんあることを
鳥が春の歌をうたえることを
旗が勝利の祝いで挙げられることを祈る

子供たちが大人たちへと願う
友の皆さん 手をつないで

われわれがこの地球において
ひとつの家族になっている
ことを忘れないでほしい




しかし、そのロシアも今紛争の舞台にいます。




Bachは、「栄光はただ神のみのために。すべての人に幸あれ。」とうたっています。
長い戦争があり、ペストが大流行し、たくさんの人が命を落とす様を知っている人の言葉です。
その言葉の重みが最近やっと、少し理解できたように思います。
この3年間で、3月という月がひとつの象徴となりました。





今、復興の妨げになっているのは「放射能汚染」です。
そしてあの原発事故から見えてきたものは、「戦争経済」という言葉です。

世界から戦争をなくす事は、そんなに難しいことなのですか?

「子供たちが大人たちへと願う
 友の皆さん 手をつないで」





















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his passion [Gould]

小学生の女の子とのレッスンで、一緒にいろんな楽譜を見ていた時、
「この英語なに?」と、彼女が楽語を指差した。

「これはイタリア語だよ。dolceはね、甘くて可愛いという意味だよ。ケーキとかキャンディーみたいの。」

すると横で聞いていた彼女のお母さんに、「dolceはやさしく、でしょ?」と訂正されました。

お母さん、イタリアン・レストランのメニューを思い出してみて。
デザートのところにdolceと書いてあるじゃない。そのイメージの方が近いと思いますよ。

ヨーロッパの音楽に接するということは、言語とか歴史とか文化とか、理解しなければならないことが沢山あります。
小さな子供にそれらをひとつひとつ説明していくことは楽しいし、改めて自分の勉強にもなります。



ブルグミュラーの練習曲は、初期のヨーロッパ文化入門の教材としても、とても役に立っています。
パストラルとは何か、そこで使われるドローン、バグパイプやミュゼットの響き。
「狩」の様子やホルンの役割。
バルカロールの拍子感や、小さい子供はまだ見たことのないヴェニスの風景。
アヴェ・マリアが何故4声体で書かれているのか・・・・などなど。


ただ、表題の和訳が相当ダサい。
よく指摘されていることで、最近は随分直されていますが、
一番びっくりするのは、「スティリアンヌ」を「スティリアの女」としたことですかね。
子供の頃このタイトルを見て、ハードボイルドな凄い悪い女を想像していました。
「スティリアンヌ」が「スティリアの女」なら、「シシリアーノ」は「シシリアの男」ということになるのか??
最近の本では、「シュタイヤー舞曲」と訂正されています。
「貴婦人の乗馬」も変ですよね。
原題を直訳すると「騎士道」。
貴婦人がどこから出てきたのか不明ですが、別の出版社のタイトルで「お嬢様の馬乗り」となっているのを見たときには、北海道あたりまでヨロけた。


和訳のタイトル、有名曲ほど定着してしまって一人歩きをしているようですが、
dolce=やさしく、みたいに訳語がたった一本のベクトルで普及してしまうのは味気ないと思います。



さて、ベートーヴェンのソナタ「熱情」。
この日本語のタイトルに以前から疑問を持っているのです。
「appassionata」は作曲家本人がつけたタイトルではないのですが、この曲のイメージとして定着していますね。
なぜ、「appassionata」とよばれるのか。


単純に日本語で「熱情」ときくと、内から湧き上がってくるような情熱を想像しますが、そんな表面的なイメージだけのことなのかな・・・
オープニングに低音で不気味に響く「運命の動機」から展開されるこの曲。
そして終楽章に向かう時に鳴り響く不穏なディミニッシュ・コードのファンファーレ・・・
「appassionata」のもとは、passionでしょ? つまり受難曲。
これを単純に「熱情」と訳してしまうなら、「マタイ受難曲」は「マシューの情熱」となってしまうね。

Wikipediaによると、passionはラテン語のpassus(pati, 苦しむ patior-) から生じた言葉ということだそうです。
英語で受動態のことをpassive voiceといいますよね。
ラテン語ではpassivum、フランス語はvoix passive、ドイツ語でPassiv。
つまり、内から湧き上がってくる感情というよりは外圧から受ける激しい感情というのが正しいのではないかしら。(ひどいことをされたわ~・・・みたいな)



さてここでやっと、登場。
Gouldの「熱情」です。(10分ちかくあるのにまだ半分)





発売当時、そして今なお不評なこの演奏。
エキセントリックなGouldがベートーヴェンをボロボロにした・・・という評価ですが、
私は、エキセントリックなのはむしろベートーヴェンの方だと思います。
Gouldはこの曲の文学的解釈を否定し、伝説的な後光をはずして楽曲そのものの真の姿を見せてくれただけ、と思います。

以下は、このソナタに対するGouldのライナー・ノートです。
「いわゆる「熱情」ソナタは、「悲愴」や「月光」同様、ベートーヴェンの鍵盤曲で最も人気のある作品にあげられる。しかし、打ち明けたところ、私にはそれだけの人気の理由がわからない。
ベートーヴェンが19世紀に入って10年間の間に書いた作品のほとんどに共通するのだが、「熱情」は主題の保持力を追求した作品である。この時期の彼には、非才の手にかかったら16小節の導入部さえできるかどうか危ういような素材から、巨大な構築物を創造するという自負心があった。このような主題はふつうは最も関心をひかないくせに、おりおりにはひじょうな危機感を与えるため、なぜベートーヴェンのような人物がそうした主題を考え出したのか、いぶかしく思われる。こうした動機の推敲はバロック風に対位法によって継続するのでもなく、ロココ風に装飾的でもない。18世紀初めの音楽が柔軟で、和解的で、慰撫に応じやすかったのとは逆に、決然として戦闘的で、譲歩に抵抗する。
これほど戦闘的な構えで作曲したものは彼以前には誰もいない。ある意味で彼以降もいない。
そうした彼の方法が機能するとき・・・彼のすさまじい猛攻がその目標を見出したとき・・・個人的であると同時に一般的なある革新が音楽の修辞的要求を超えてしまっていることが感じ取れる。
しかし、うまくいかないとき、彼の中期の作品群はその同じ仮借のない動機探求の犠牲になってしまう。
「熱情ソナタ」は、その意味で彼の方法が機能していない、と思う。
第一楽章アレグロでは、第一主題、第二主題ともに三和音のアルペッジオ音型によって生まれているが、両者の関係はなぜか焦点を失っている。冒頭のヘ短調による主題提示には関係長調の補助動機がしっかりと従っており、ベートーヴェンの最も注意深く考えられたほかのさまざまな提示部を支配している仮借ない調性的戦略の効果があがっていない。展開部も同様に統制がとれていない。ベートーヴェンの展開部組み立てが成功している場合、その存在理由となる秩序と混沌による独自の合成物、あの、中心で猛威を振るう壮大なものに代わって、ステレオタイプ的な反復進行が置かれているのだ。
第二楽章アンダンテを組み立てている4つの変奏は、変ニ長調の、暗く合流する主要和音から導かれたものであるが、拡がりを欠いている。終楽章は「月光ソナタ」の終楽章と同じように、本質的にはソナタ・アレグロで、トッカータ風の伴奏動機を執拗に用いることによって、点描的に描かれたホルンの音と、掻き鳴らされるコントラバス効果をほぼ完全に印刷ページから浮かび上がらせている。再現部の末尾、コーダに向かって熱っぽいストレットにむちを入れて突入する前、ベートーヴェンは妙な18小節のギャロップを挿入している。
老練のヴィルトゥオーゾはどんなにまずい演奏をしていても英雄気取りの見えを切ることによって、大向こうから熱狂的な喝采を集めるものだが、この作品でそうした見えに相当するのが、活気づいたテンポ、単純なリズム型からなるこの18小節である。
ベートーヴェンは生涯のこの時期、動機の経済性に専念していたわけではない。彼はベートーヴェンであることにも心を砕いていた。「熱情」には、自己中心的な尊大さがある。「私があれを再利用して首尾よくやれないかどうか、目にもの見せん」といった傲慢な態度がある。だから、私の選んだベートーヴェン作品人気番付表によれば、このソナタは「シュテファン王序曲」と「ウェリントンの勝利」交響曲の間に位置している。」


この解釈からうまれた演奏は沢山の批評家たちに散々批判されてしまい、スキャンダルにまでなってしまいました。
「apassionata」は、Gouldにとってはまさにpassionでしたか。





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Campus Stellae_autumnn concert [私の録音( not Bach )]

去年の11月に出演したコンサートのビデオが出来上がってきました。
観るのも気が重いけど、きちんと見て反省点を整理しないと。


しかし、自分の映像ってのは、見るのはキツイもんですね。
いろんな意味で(笑)


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どの曲も、自分で思っていたよりもかなりテンポが速い。
そして、ミスタッチの嵐・・・・












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Happy New Year 2014 [私の録音( Bach )]




明けましておめでとうございます。





今年の干支にちなんで、馬っぽく弾いてみました。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。



2014.1.5









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Bach Praeludium BWV902 [私の録音( Bach )]

Merry Christmas !






Bachの、とっても小さな宝石のような、可愛いプレリュードです。
パストラルなので、クリスマスにいいかなと思い録音しました。









そして、クリスマス・イヴの夜には、こんな素敵な動画を是非。



ウルグアイのムヒカ大統領のRio+20でのスピーチです。
世界一貧乏な大統領とよばれている人は、世界一心の豊かな人でした。
ウルグアイには素晴らしいリーダーがいるのですね。
自分の今の生活を恥じてしまいます。



彼のスピーチから、子供の頃に読んだ「momo」を思い出しました。

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日々の生活に追われて見失ってしまったな・・・反省。
今度、映画も見てみようかな・・・・



momoにあこがれていた当時の私は、どこに行ってしまったの。





EndeもBachも同じことを言っている。
昔はそう感じていました。
今の私は見失ってしまっている・・・















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アリアドネの糸 [私の録音( not Bach )]

秋のコンサートが終わって、沢山の反省点と共にブログにまとめを書こうと思いながら
随分日にちが経ってしまいました。

自分の中でもまだ整理がついていないので、何をどのように書いていいのかよくわからないのですが、
ひとつだけ。
一番大きなミス。
それは、演奏を途中で止めてもう一度弾きなおしをしてしまったことです。



演奏会では、演奏のチャンスはたった一度だけです。
Gouldの言う、「ノン・テイク2ネス」。
私はこれがどうしてもクリアできない。
「あっ!これはダメだ。今のナシ!」と思ってしまうと、気持ちが離れて続けることができなくなってしまいます。



「何が違うのか全然わからなかったよ。そのまま行っちゃえばよかったのに。」と散々言われました。
聴いている方には違いがわからないほどの個人的なこだわりは、ただの自己中心的なミスなのだから、
弾きなおしなどは許されないことなのだ、と反省しています。
反省はしているのだけれど、乗り越えられない・・・・


ステージ演奏は、本当に難しいです。





気分が晴れないまま、毎月恒例の「アナリーゼ講座」に出かけてきました。
当日は後ろに仕事が詰まっていて時間的に無理かも、という日でしたが、Ⅱ巻の9番は絶対にはずせない。
結果、無理して参加して本当によかった。
いつもに増して、素晴らしい講座でした。



BachがFischerの「Ariadone musica」からテーマを拝借していくつかの作品を書いていることは周知のことですが、
この日先生が演奏してくださったFischerのフーガは、他で聴いたことがないくらいに心のこもった美しい演奏でした。
「ドイツは日本よりももっともっと北にあって、とても寒いでしょうね。
そんな寒い北国で、ホントに素朴なお百姓さんや普通の人々が教会に集まって賛美歌を歌う。
そんなことを思い起こさせる、素朴で暖かい、素晴らしい音楽だと思いませんか?」


BachがFischerからもらったものは、単なる音の並びだけではなかったのだな。
音楽の真髄。




音楽のアリアドネは、こんな私にも糸をくれるかな・・・・






















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Touch The Sound [音楽雑感]

自分のコンサートまで、あと2週間あまりと迫ってきましたが、
仕事の諸事情でなかなか集中してピアノにむかう時間がとれません。
仕事の量を減らすと生活がままならないし、ここらへんの調整が難しいところです。



なので、最近はピアノの屋根を閉めて音を密封状態にして夜に練習しています。
これがなかなか気持ちいい。
屋根をオープンにすると音はいろいろなところへ飛んでいきますが、
閉め切った胴体の中で共鳴する音たちは思いもよらない効果を生んで、
深い、豊かな、新しい響きを体感させてくれます。
音の振動がピアノ全体に伝わって楽器の全身が振動する、その響きに感動します。
宮沢賢治の「セロ弾きゴーシュ」の、チェロの胴体の中に入った子ねずみが病気を治すくだりを連想します。
こういう音の効果って、録音することはできないんだな・・・



そんなこんなで、練習そっちのけでいろんな事をあれこれ考えてしまいました。




自然界に存在する音、その中で人間の聞き取れる音はとても限られている。
音楽の「楽音」の領域は、もっともっと狭い。
音響工学の本に書いてあったこと、「耳(つまり頭の横に付いている一対の聴覚器官)というのは、単にもっとも使用頻度の高い「可聴音域」を感知するための部品にすぎず、本来は身体全体の「皮膚」そのものが「空気振動を感知する器官」なのだ」。
それを読んでいて、エヴェリン・グレニーさんのことを思い出しました。



ご存知の通り彼女は耳が聞こえませんが、「耳」などという限られた小さな部品に頼らず全身で音を感知できる素晴らしい感覚を持っています。
「耳だけで聞く」ということは、本来の音楽の世界の、もっといえば自然界の一部を切り取った行為といえるのではないか。
コンサート会場で私たちが「聞く」のは、目の前で出される「楽音」以外にもその音の残響、共振、倍音・・・・
つまり「空間」。
「空間」を聞くために、私たちはコンサートへ出かけていくのですよね。



「雪がしんしんと降る。」
「しんしんと」ってどんな音?
何もない「ホワイト・ノイズ」を重ねると、広い空間が聞こえてくるらしいです。
広いホワイト・ノイズの空間に囲まれると、雪がしんしんと降る音が聞こえてくるだろう。



そして、ピアニストのアファナシェフさんがインタビューで言っていたこと。
「音楽は沈黙から立ち上り、沈黙に還ってゆく。」




「初めの一音が大事」、よく聞く言葉ですよね。
でも、もっと言うなら、初めの一音を出す寸前の「空間」に触れることが大事。
何もないところに「音楽」は、「振動」は、すでに始まっているのだから。







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Morgen [Gould]


今日はGouldのお誕生日です。







「 あした 」   
       4つの歌 Op.27より

そしてあした、太陽は再び輝くでしょう
そして私の歩いてゆく歩道を照らし
私を再びあの人に会わせ、幸せにしてくれるでしょう
光に満ちたこの地上で...



Gouldの憧れの女性、エリーザベト・シュヴァルツコップとの幻の共演です。
こんなに美しい録音が長い間お蔵入りになっていました。





こんな珍しいアウト・テイクも公開されています。




オフィーリアの3つの歌ですね。
シュヴァルツコップは本当に素晴らしい。
しかし、彼女との共演はこの3つの歌以外は世に出ませんでした。





そう言えば、


Gouldの愛読書「草枕」の主人公も、オフィーリアを描こうとしていましたっけ。
しかしどうしても描くことができず、スケッチブックを広げても出てくるのは俳句ばかりでした。
Gouldにも漱石にも手が届かなかったオフィーリア。







Gouldのオフィーリア、シュヴァルツコップさんは7年ほど前に90歳でこの世を去りました。



「夕映えの中で…」
ぼくたちは苦しいときも嬉しいときも
手に手を取って歩んできた。
でも、もう彷徨うのはやめて静かな土地で休もう。

空は黄昏れてきて、二羽のヒバリが霧の中に昇って行く。
ヒバリには歌っていてもらおう、すぐ眠りの時が来る。







Happy birthday ,Glenn.
81回目のお誕生日に。















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