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Gould on TV ② [Gould]

Bachを語るGould。
この動画はとても興味深いです。










1962年にカナダのCBCで放映された「Glenn Gould on Bach」というTV番組からの映像です。
内容の一部は既にいろいろなところで公開されていましたが、全内容が出てきたのは1年半ほど前です。

↓このDVDに収録されています。

51K94TCVwQL.jpg

私はまだ購入していません[もうやだ~(悲しい顔)]
3万円もするし。。。高いの。。。


ここでGouldが語っていることは、どの言葉もとても興味深いのですが、
中でも私が感動したことをいくつか記録しておこうと思います。

1.Bachとは・・・・

Bachの晩年、世の中の流れは変わり始めていた。
バロック時代とは、科学の有用性と人間の持つ誇るべき素質(信仰の魔術的、神秘的で畏敬すべき典礼)とが、まだ共存できる時代だった。
人間の意志と冷酷な運命の力の間に調停を求める力強い精神的な譲歩が、そこにはあった。
しかし時は変わり、論理的であることを求める世界、新しい若い発想を求める時代がやってくる。
音楽活動の拠点が教会から劇場へと移行していく時代。
新しい芸術が合理的な世界を合理的に反映する時代がやってきたのだ。
新しい時代には新しい音楽様式が生まれた。
Bachが亡くなった時、巨匠と呼ばれたのは彼ではなく彼の息子たちだった。
新しい音楽様式の下地作りをしたのは、他ならぬ彼の息子たちとその仲間・・・ヨゼフ・ハイドンなど・・・だった。
そして生まれた新しい音楽形式・・・交響曲とソナタは、簡略化され明確化された機能和声の世界に依存するようになっていく。
しかしBachは新しい時代に歩調を合わせることはせず、自分の信念を守り通した。
集団的な歴史プロセスの外に立つ独立独歩の芸術的良心を貫いた最大の頑固者なのだ。






2.Bachの素晴らしさとは・・・・

Bachは簡潔な和声的効果や隣り合う主題の明確な定義などはしなかったが、彼の和声は並外れて複雑で豊かである。
その音楽には永遠にうねり続ける和声的運動の流れがあり、たくさんの旋律線が複雑に絡み合って、あたかも、いつまでも安定を得られない人間のあり様を示唆しているようにも思える。
彼の音楽の中に私たちが期待するのは、大きな驚きの瞬間や表現というものではなく、事象の恒常性、発展の線的継続性、運動の確実性だ。
そもそもBachにとっての芸術とは、信仰の何なるかを表現する手段だったのだ。
無心に導かれるように何かを体験し、普遍で完全なる存在が現世の困難や誘惑に阻まれ、それでも必ずやその誘惑に打ち勝って乗り越えてゆく・・・そこに波乱万丈な人生のドラマが生まれる。
信仰の何なるかとはそういうことだ。






3.カンタータ「いざ罪に抗すべし」

Bachは、ある種の表現のために和声的な大きな冒険をすることがある。
それは16世紀のジュズアルド以降消え去られていて、20世紀のシェーンベルクまで現れることのなかった語法である。

(出た!ジュズアルド。私、思春期の頃にすごくはまったことがありました。意味もわからずもっぱら感覚的な好き嫌いの域ですけれど。

この美しくも不安定な半音階進行が沢山の不協和音や対斜を生むんです。
ここでのシェーンベルクで私が思い起こすのは、「浄夜」。Gouldはシェーンベルクを偉大なBachの後継者とよんでいました。

素晴らしい作品。)


カンタータ5番のテキストからは、人生の誘惑やそれを排除するために求められる絶え間ない努力といったものを受け取ることができる。
冒頭の和音は、Bachが持つ数々の和音の中で最も力強い和音の一つだ。
最初と最後の楽章は、対斜と掛留に満ち溢れていて、これらは一番深く一番激しい感情を抱いている主題のためのBachの取って置きの技法なのだ。

(当時は、ポドキー教授のバッハ論が話題になっていた頃なのでしょうか。いわゆる14はBachを表す数字であるとか、五度圏上の対角線は十字架音型であるとか・・・ちょっとダ・ヴィンチ・コードちっくな推理が流行っていた頃かもしれません。面白くて私も好きなのですが、Gouldはダメって言っています。)

しかし、Bachのカンタータの絵画的な特徴を強調するのは大変危険だ。
例えばこの冒頭のフレーズを劇的に見ると、属11の和音は魂の清廉を求める戦いの緊張と不協和を示し、主和音による解決は精神的な勝者を待つ安心感の境地であるとか、冒頭の和音は犠牲、戦いを求める迷惑な態度を意味し、主和音による解決は魂の安らぎと快楽を表すとか・・・・
Bachの神学的立場にどれほどの確信が得られようとも、彼が終始一貫して音の建築家であったという事実に間違いはない。
彼が私たちにとってかけがえのない存在である理由は、彼が疑いなく史上最大の音の建築家であったからに他ならない。





4.集大成としてのBach

Bachの音楽は、ルネサンス初期以来のヨーロッパ北部の巨匠たちが実践したあらゆる手法の総括である。
彼は、ドイツ、オランダ、フランドルの長い系譜の一番最後に位置している。
長調と短調に集約されたために限界が生じたとかつて考えられていた調性の概念から、活力のある和声を生み出そうとしていた人々の一番最後に。
Bachの和声的発想は、彼の生まれる1~2世紀前、音楽史上最も不安定な過渡期を含む時代の調体系に由来している。
Bachが用いた洗練された線的技法はすべて、本質的にはルネサンス時代の作曲家達によって発展、完成されてきたものだ。
では何故、彼の音楽があれほどまでに胸にせまるのか。
Bachはドイツ人であるがゆえに、初期バロックの対抗する二つの勢力の狭間に立っていた。
一つは北の勢力・・・対位法的な様式が元来声楽の前提にあるオランダ、フランドルの伝統。
もう一つは南の勢力・・・器楽様式の流麗な多様性を根源とするイタリア。
人生の終わりに近づくにつれて、Bachは対立しあう2つの音楽様式を結合させて感動的な新しい様式を展開させた。
そこでは、器楽様式の鋭敏さと幅広さ、声楽様式の簡潔性と純粋性が結びついている。

(ここで、彼が弾いているフレーズを是非聴いてください。31:53ころからです)

聞き覚えがありますか?これはコラールではありません。
ブランデンブルグ協奏曲5番の冒頭を和声進行にしたものです。
このように彼は、当時最も洗練されたイタリア的な形式においてさえ、ドイツ・コラールの書法を裏付ける和声的純粋さや思考の明快さを構造の支柱に据えているのだ。
ブランデンブルグ協奏曲はとても優雅で、イタリア的器楽書法の形式的バランスを持っている。
そうした特徴を持ちながらも、中心には多面性を与える多声的な性格の素晴らしい感覚を持っている。
・・・・・・・



以上(かなり省略)



これは、Gouldが29歳の時の映像です。
よくよく勉強して研究して、理解して、さらに自分自身の見解を持っていることに感動します。
「アナリーゼ講座」で、よく先生がフィッシャーやケンプの素晴らしさを教えてくださいますが、
ただ一言、プロってすごいんだな・・・と。
巧みな演奏力は勿論のこと、楽曲の分析、時代考証、作曲家の理解、思想・・・・全てを包括した上でさらに自分の見解をきちんと立証できる。
自分がプロの演奏家であると名乗れるのは、こうした凄い裏づけを持っているからなんですね~。















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