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家具になった音楽 [Gould]

書店で、「グールドのシェーンベルク 」を立ち読みしていたら、隣に立っていた女性に声をかけられた。

「あら、あなたも”グールディアン”なの?」

私は、床板の中にのめり込みそうなくらいにドッサリとぐったりしましたよ。
その不気味な名称で人をカテゴライズするのはやめていただきたい、と思いながら
「いいえ、ただのファンです。」と答えて、そそくさと帰ってきました。


”グールディアン”という言葉が大嫌い。
そういうカテゴリーに喜んで属する人が嫌い。
私が捻くれ者だからかもしれないけれど。
あなたはこういう人、と人から言われるのが嫌いだからからかもしれないけれど。
いや、それだけじゃないな・・・
ただ単に、その語感が嫌いなのかもしれない。
何の根拠もないのですが、”グールディアン”という言葉を聞くと、こんな人が[ひらめき]と頭に浮かぶ・・・・

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理由はないので訊かないでください。






もうじき引越しをする友人から、Gouldの本をもらいました。
「本を整理してたら出てきた。つまんないからあげる」って・・・・
そんな~。
さっきまでパラパラ見ていました。
いわゆる”グールディアン”向けの企画物ですね。

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特に興味深いものはないです。
たった一つのエッセイを除いては。

高橋悠治さんの「家具になった音楽」という、Gouldが亡くなった時、高橋さんが新聞に寄せた追悼文が載っていました。
高橋悠治さんが追悼文を書いていらしたのは知っていましたが、初めてその文章を目にしました。


「家具になった音楽」

グレン・グールドが死んだ。クラッシック演奏のひとつの実験はおわった。
現代のコンサートホールで2000人以上の聴き手をもつようなピアニストは、きめこまかい表現をあきらめなければならない。指はオーケストラ全体にまけない大きい音をだす訓練をうけ、小さな音には表情というものがないのもしかたのないことだ。容量のわずかなちがいによってつくられる古典的リズム感覚は失われた。耳をすまして音を聴きとるのではなく、ステージからとどく音にひたされていればいい耳は、なまけものになった。

音の技術が進む中で1950年代にレコードがLPになり、テープ編集技術ができあがり、「電子音楽のゆめ」がうまれた。
どんな音もスタジオのなかでおもうままにつくり、くみあわせることができる、と音楽家たちはおもった。材料は自然の音にしろ、人間の声やピアノの音にしろ、聴き手がうけとるのは電圧の変化によるスピーカー膜の振動なのだから、どんな音も電子音の一種に変えられて耳にとどいている。おなじ空間のなかで、つくり手と聴き手がわかちあう音楽ではなく、聴き手のいないスタジオでうまれ、つくり手のみえないスピーカーからながれる音楽がある。音楽は密室の家具になった。テレビが映像をふくむ照明装置であるように。

グレン・グールドは、コンサートホールを捨てて、スタジオにこもった。なまの演奏の緊張と結果のむなしさに神経がたえられなかったのかもしれないが、それを時代の要求にしたてあげたのが、彼の才能だったのか。

グールドのひくバッハは、1960年代にはその演奏スタイルでひとをおどろかした。極端にはやいか、またはおそいテンポ、かんがえぬかれ、即興にみせかけた装飾音、みじかくするどい和音のくずし方。だが、それは18世紀音楽の演奏の約束ごとを踏みはずしてはいない。1970年代には古楽や古楽器の演奏にふれることもおおくなり、グールドの演奏も耳あたらしいものではなくなった。マニエリズムというレッテルをはることもできるようになった。

だが1960年代のグールドのメッセージは、演奏スタイルではなかった。コンサートホールでは聴くことができない、ということに意味があった。おなじころ、グールドの住んでいた町、カナダのトロントからマーシャル・マルクーハンが活字文化の終わりを活字で主張していた。「メディアがメッセージだ」というのが時代のあいことばだった。
この「電子時代のゆめ」は、数年間しかもちこたえることができなかった。1968年がやってきた。プラハの町にソ連の戦車が姿をあらわし、フランスとドイツで若者たちが反乱をおこし、やがてベトナムはアメリカに勝つ。中国の文化革命もあらしを過ぎ、石油危機を通りぬけると、テクノロジー信仰も、それと対立するコミューンの実験を道づれにしてくずれおちた。次の世代には身をあずけられる原理も、すすむべき道ものこされていなかった。いまメディア革命やその反対側の対抗文化にしがみついている少数は、うしろめたさを感じないではいられないはずだ。いらなくなった文明が病気となって人間にとりついている。文明に反逆する人間も、おなじ病気にかかっている。どちらも船といっしょにしずむのだ。
われわれのしらない明日がやってくる。そこにたどりつこうとしてはいけない。明日やってくる人たちのために、今日のガラクタをしまつしておくのはいい。世界というからっぽな家をひきわたして、でていけばいいのだ。

マルクーハンが死んだときは、もう忘れられていた。グールドも「メディアとしてのメッセージ」の意味がなくなったあとは、演奏スタイルの実験をくりかえすことしかできなかった。レコードというかたちがあたらしくなくなれば、聴いたことのない曲をさがしだしてくるか、だれでもがしっている曲を、聴いたことのないやり方でひくしかない。どちらにしても、そういう音楽はよけいなぜいたくで、なくてもすむものだ。

音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラシック音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。音楽産業はどうしようもない不況で、大資本や国家が手をださなければなりたたないというのに、音楽市場はけっこう繁栄している。これほどのからさわぎも、そのななから、人びとにとって意味のあるあたらしい音楽文化をうみだすことに成功してはいない。

グレン・グールドは50歳で死んだ。いまの50歳といえば、まだわかい。だが、かれの死ははやすぎはしなかった。
かれだけではない。だれが死んだって、やりのこしたしごとなどないだろう。しごとの意味の方がさきに死んでしまっている。どこかでそれとしりながら、しごとを続けているのがいまの音楽家の運命だ。こういう仕事をしていれば、いのちをすりへらしても当然だ。

音楽というものがまだほろびないとすれば、明日には明日の音楽もあるだろう。だが、それを予見することはわれわれのしごとではない。いまあるような音楽が明日までも生きのびて明日をよごすことがないとおもえばこそ、音楽の明日にも希望がもてるというものだ。音楽家にとってつらい希望ではあっても。











Gouldは亡くなった。彼の死が早すぎたのか遅すぎたのか、私にはわからない。ただ、これからも私はずっと彼の音楽を聴き続けていくだろう。
そして、高橋悠治さんは今尚、精力的に音楽活動を続けている。
常に音楽の意義を問い続けながら。
悠治さんのBachのレコードの中にこんな文章がありました。

「楽譜は、家をたてるときの足場のようなもので、しごとがすんだら、もういらない。作曲者の意図もまた足場であり、それもすてることができる。のこるものはことばであらわすことができない。だからやるよりほかはない。
演奏にたいするこの態度は、音楽によって自己表現するロマン的なものではなく、作曲家の意図や、時には楽譜自体を解釈する古典的なものでもない。このことでおもいだすのは、中国のことわざで、「指が月をさすとき、バカは指を見る」というものだ。
 演奏するとき、まずすることはきこうとし、自由な遊びをひきおこすことだ。演奏は西洋流にいえば即興のようになる。その場でその時におこらなければならないのだから。演奏者は、バッハが作曲するのとおなじ態度で演奏する。おこっていることに注意をはらい、しかも劇的効果のために音の動きをコントロールしてはならない。これは自己表現をあらかじめ排除する。それは、作曲家・演奏家・きき手がひとつのものである完全に統合された音楽的状況にたいへん近づく。演奏するのはききとることなのだ。」



















タグ:高橋悠治
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gezkaz

glennmieさん、ご無沙汰してます。おくればせながら、Happy New Yearです。今年もよろしくお願いします。

私もこの本、本屋さんでチラ見したんですが、なんとなくShallowな作りな気がして、買いませんでした。でもこんな興味深い文章もあったのですか。ご紹介くださってありがとうございます。高橋さんの自分への問いかけが聞こえてくるよう……。

グールディアンですか〜。この画像、超うけてしまいました。自動的に「ぷりぃぃぃ〜しゃすぅ」と低い声で言いたくなります。条件反射です。ふふふ。
by gezkaz (2011-02-02 03:41) 

アヨアン・イゴカー

「高橋悠治コレクション1970年代」(平凡社ライブラリー)読んでいて、いろいろと考えさせられました。私はよく知りませんが、作曲家的な演奏をするという点で、グールドと共通点があるのではないかと思います。つまり、演奏のオリジナリティを目指しているという点です。
by アヨアン・イゴカー (2011-02-02 09:32) 

glennmie

gezkazさん、コメントありがとうございます。

こちらこそ、今年もどうぞ宜しくお願いします。

そっか~、
「グールディアンですか?」ときかれたら、「ぷりぃぃぃ〜しゃす」と答えればいいんですね!
なぁんだ、簡単なことだったんだ~
この運動を広めたい!
gezkazさんも是非ご参加ください^^
by glennmie (2011-02-02 12:24) 

glennmie

アヨアン・イゴカーさん、どうもありがとうございます。

アヨアンさんは悠治さんの平凡社ライブラリーをお読みになったんですね!
私がとても尊敬する音楽家です。
ただ、私の乏しい頭で理解できる部分はとても小さいんですけど。
アンチ・グールドの人というイメージですが、私は逆だと思う。冷静によく理解している人だと思います。
仰るとおり、共通するものを持っていらっしゃるからアンチテーゼを持ち続けているのだと感じます。
悠治さんの音楽論は深くて過激ですね。私も、いろいろと考え込んでしまいます。
by glennmie (2011-02-02 12:38) 

glennmie

xml_xslさん、nice!ありがとうございます。
by glennmie (2011-02-02 12:40) 

glennmie

yayu-changさん、nice!ありがとうございます。
by glennmie (2011-02-02 12:40) 

glennmie

佐々木さん、nice!ありがとうございます。
by glennmie (2011-02-02 12:41) 

Mineosaurus

ボクは悠治さんの演奏は奥さんのアキさんのものとよく一緒に聴くことがある程度です。きわめて狭い聴き方ですが、おっしゃっていることはいくらかは理解できるし共感しますが、音楽が個から発している以上、その個から発している因果的連鎖を断ち切って演奏行為を独自の創造的領域にまで引っ張り上げて行こうとする気概は凄いと思うものの、正直ちょっと「そうなのかなぁ」という気がしています。
残念ながらボクの耳と感性は高橋悠治のピアノを聴くために、バッハを選んだり、サティを選ぶのではなく、バッハやサティを聴きたいと思うとき、たまたま高橋悠治の弾いたそれを聴きたくなって選ぶからです。
田舎にいると疎いのですが、グールディアンなる言葉は初めて聴きました。ボクなら聴き直してますね、多分。フランキストとか言うのと同じようなものでしょうかね。フランキストと同じような耳馴染みを得るにはあと何十年もかかりそうですが。
by Mineosaurus (2011-02-02 22:12) 

glennmie

Mineosaurusさん、どうもありがとうございます。

アキさんのサティは素晴らしいですね!
(サティはアキさんのものしか聴かないのですが^^)あっ、アキさんは悠治さんの妹さんです。

悠治さんの理論は鋭く過激で、読んでいると感化されて圧倒されます。
今ある自分が全否定されているようで、自分の在りかたに罪悪感を感じてしまうときもあります。
この思想は高橋悠治だから成り立つのであって、他の凡人がこれに倣っても自滅するだけ、と思いながらも目が離せない人です。
自分にとっての音楽は趣味であり日常の楽しみでありますが、音楽を発信し聴き手を感化する立場のプロの音楽家には悠治さんのような視点も必要なのだと思っています。

それと、グールド・ファンは不滅ですが、
グールディアンなる言葉・・・個人的には、何十年も残って欲しくはないですが・・・
by glennmie (2011-02-02 22:58) 

glennmie

kotenさん、nice!ありがとうございます。
by glennmie (2011-02-02 23:02) 

glennmie

tamanossimoさん、nice!ありがとうございます。
by glennmie (2011-02-03 02:27) 

ユーフォ

「ぷりぃぃぃ〜しゃす」って聞いて、またあの物語を読み返したく
なってしまいました(^^♪

セキセイの耳は人間でいうホッペタの部分に配置されていますよ。
(羽毛で隠れてますけど)
よく聞きたい時は首をかしげて聞きいっています。
それにしても、Gouldさんってイケメンですよね(^^♪
ユーフォ相方
by ユーフォ (2011-02-03 16:20) 

arata

glennmie 様
厳しい内容の記事ですね。舞踏に於いても、舞踏家は、その存在する踊りの内容を明らかにする事に精力を使うべきで、ナマの自分の存在をアピールしてはならないのです。優れた演奏家・演技者のインタープレテーションは、視聴している内に演奏家・演技者のナマの姿が消えて、その表現だけが心に残りますね。残り方は、多様ですが。
僕の究極の目標は、音楽であれ舞踏であれ、それらの存在を視聴して下さる方の心に残す事です。遠い目標ですが、やる以上その境地に至る必要があると思うのです。志半ばで、終わってしまうかも知れませんが、その意気込みなしでは、音楽・舞踏に取り組めません。
arata
by arata (2011-02-03 19:21) 

glennmie

ユーフォ相方さん、どうもありがとうございます。

へぇぇ~~
ピッピのお耳はホッペにあるんですか!
初めて知りました。びっくりしました。
耳がお顔の中にあるなんて・・・なんてコンパクトな・・・・

Gouldさん、私が一番好きなのは彼の前頭葉。
あのデコが只者ではない証です。
ピッピのようにホッペにお耳があってGouldのようなおデコがあれば、私も少しはよさげになるかしら・・・(怖)
by glennmie (2011-02-03 21:15) 

glennmie

arataさん、どうもありがとうございます。

楽器演奏で一番興味がないのが、テクニックの凄さをアピールするタイプ。
一番嫌いなのが、自己陶酔するタイプの演奏です。
表現行為に何を求めるかは、人によって様々だと思います。
演奏家の超絶技巧を見たい人もいるでしょうし、自分の世界に没頭する演奏家の姿に憧れる人もいますから。

自分にとって一番魅かれる演奏は何だろう??
Gouldの構造主義に徹したスタイルは、確かに大いに共感しますが、私が彼の演奏に一番魅かれるのは、実は、そこではないような気がします。
あのピアノの音色とか、選曲とか、リズムの感覚とか、歌い方とか・・・要するに彼のセンス、彼の美意識、彼の人生観です。

うまく言えなくて歯がゆいんですが、
表現者がその表現に何を求めているか、ということは最終的にその表現者自身の在り方に関わってくるというのですかね・・・・
自分にとって魅力のある表現は、自分にとって魅力のある人から生み出されてきたものなんですよね・・・・

空騒ぎする何十万人のファンより、たった一人でも心から共感、感動してくれるファンを持つ表現者に憧れます。


by glennmie (2011-02-03 22:02) 

glennmie

cfpさん、nice!ありがとうございます。
by glennmie (2011-02-03 22:04) 

glennmie

galapagosさん、nice!ありがとうございます。
by glennmie (2011-02-06 02:44) 

glennmie

Musicfanさん、nice!ありがとうございます。
by glennmie (2011-02-06 02:45) 

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