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his passion [Gould]

小学生の女の子とのレッスンで、一緒にいろんな楽譜を見ていた時、
「この英語なに?」と、彼女が楽語を指差した。

「これはイタリア語だよ。dolceはね、甘くて可愛いという意味だよ。ケーキとかキャンディーみたいの。」

すると横で聞いていた彼女のお母さんに、「dolceはやさしく、でしょ?」と訂正されました。

お母さん、イタリアン・レストランのメニューを思い出してみて。
デザートのところにdolceと書いてあるじゃない。そのイメージの方が近いと思いますよ。

ヨーロッパの音楽に接するということは、言語とか歴史とか文化とか、理解しなければならないことが沢山あります。
小さな子供にそれらをひとつひとつ説明していくことは楽しいし、改めて自分の勉強にもなります。



ブルグミュラーの練習曲は、初期のヨーロッパ文化入門の教材としても、とても役に立っています。
パストラルとは何か、そこで使われるドローン、バグパイプやミュゼットの響き。
「狩」の様子やホルンの役割。
バルカロールの拍子感や、小さい子供はまだ見たことのないヴェニスの風景。
アヴェ・マリアが何故4声体で書かれているのか・・・・などなど。


ただ、表題の和訳が相当ダサい。
よく指摘されていることで、最近は随分直されていますが、
一番びっくりするのは、「スティリアンヌ」を「スティリアの女」としたことですかね。
子供の頃このタイトルを見て、ハードボイルドな凄い悪い女を想像していました。
「スティリアンヌ」が「スティリアの女」なら、「シシリアーノ」は「シシリアの男」ということになるのか??
最近の本では、「シュタイヤー舞曲」と訂正されています。
「貴婦人の乗馬」も変ですよね。
原題を直訳すると「騎士道」。
貴婦人がどこから出てきたのか不明ですが、別の出版社のタイトルで「お嬢様の馬乗り」となっているのを見たときには、北海道あたりまでヨロけた。


和訳のタイトル、有名曲ほど定着してしまって一人歩きをしているようですが、
dolce=やさしく、みたいに訳語がたった一本のベクトルで普及してしまうのは味気ないと思います。



さて、ベートーヴェンのソナタ「熱情」。
この日本語のタイトルに以前から疑問を持っているのです。
「appassionata」は作曲家本人がつけたタイトルではないのですが、この曲のイメージとして定着していますね。
なぜ、「appassionata」とよばれるのか。


単純に日本語で「熱情」ときくと、内から湧き上がってくるような情熱を想像しますが、そんな表面的なイメージだけのことなのかな・・・
オープニングに低音で不気味に響く「運命の動機」から展開されるこの曲。
そして終楽章に向かう時に鳴り響く不穏なディミニッシュ・コードのファンファーレ・・・
「appassionata」のもとは、passionでしょ? つまり受難曲。
これを単純に「熱情」と訳してしまうなら、「マタイ受難曲」は「マシューの情熱」となってしまうね。

Wikipediaによると、passionはラテン語のpassus(pati, 苦しむ patior-) から生じた言葉ということだそうです。
英語で受動態のことをpassive voiceといいますよね。
ラテン語ではpassivum、フランス語はvoix passive、ドイツ語でPassiv。
つまり、内から湧き上がってくる感情というよりは外圧から受ける激しい感情というのが正しいのではないかしら。(ひどいことをされたわ~・・・みたいな)



さてここでやっと、登場。
Gouldの「熱情」です。(10分ちかくあるのにまだ半分)





発売当時、そして今なお不評なこの演奏。
エキセントリックなGouldがベートーヴェンをボロボロにした・・・という評価ですが、
私は、エキセントリックなのはむしろベートーヴェンの方だと思います。
Gouldはこの曲の文学的解釈を否定し、伝説的な後光をはずして楽曲そのものの真の姿を見せてくれただけ、と思います。

以下は、このソナタに対するGouldのライナー・ノートです。
「いわゆる「熱情」ソナタは、「悲愴」や「月光」同様、ベートーヴェンの鍵盤曲で最も人気のある作品にあげられる。しかし、打ち明けたところ、私にはそれだけの人気の理由がわからない。
ベートーヴェンが19世紀に入って10年間の間に書いた作品のほとんどに共通するのだが、「熱情」は主題の保持力を追求した作品である。この時期の彼には、非才の手にかかったら16小節の導入部さえできるかどうか危ういような素材から、巨大な構築物を創造するという自負心があった。このような主題はふつうは最も関心をひかないくせに、おりおりにはひじょうな危機感を与えるため、なぜベートーヴェンのような人物がそうした主題を考え出したのか、いぶかしく思われる。こうした動機の推敲はバロック風に対位法によって継続するのでもなく、ロココ風に装飾的でもない。18世紀初めの音楽が柔軟で、和解的で、慰撫に応じやすかったのとは逆に、決然として戦闘的で、譲歩に抵抗する。
これほど戦闘的な構えで作曲したものは彼以前には誰もいない。ある意味で彼以降もいない。
そうした彼の方法が機能するとき・・・彼のすさまじい猛攻がその目標を見出したとき・・・個人的であると同時に一般的なある革新が音楽の修辞的要求を超えてしまっていることが感じ取れる。
しかし、うまくいかないとき、彼の中期の作品群はその同じ仮借のない動機探求の犠牲になってしまう。
「熱情ソナタ」は、その意味で彼の方法が機能していない、と思う。
第一楽章アレグロでは、第一主題、第二主題ともに三和音のアルペッジオ音型によって生まれているが、両者の関係はなぜか焦点を失っている。冒頭のヘ短調による主題提示には関係長調の補助動機がしっかりと従っており、ベートーヴェンの最も注意深く考えられたほかのさまざまな提示部を支配している仮借ない調性的戦略の効果があがっていない。展開部も同様に統制がとれていない。ベートーヴェンの展開部組み立てが成功している場合、その存在理由となる秩序と混沌による独自の合成物、あの、中心で猛威を振るう壮大なものに代わって、ステレオタイプ的な反復進行が置かれているのだ。
第二楽章アンダンテを組み立てている4つの変奏は、変ニ長調の、暗く合流する主要和音から導かれたものであるが、拡がりを欠いている。終楽章は「月光ソナタ」の終楽章と同じように、本質的にはソナタ・アレグロで、トッカータ風の伴奏動機を執拗に用いることによって、点描的に描かれたホルンの音と、掻き鳴らされるコントラバス効果をほぼ完全に印刷ページから浮かび上がらせている。再現部の末尾、コーダに向かって熱っぽいストレットにむちを入れて突入する前、ベートーヴェンは妙な18小節のギャロップを挿入している。
老練のヴィルトゥオーゾはどんなにまずい演奏をしていても英雄気取りの見えを切ることによって、大向こうから熱狂的な喝采を集めるものだが、この作品でそうした見えに相当するのが、活気づいたテンポ、単純なリズム型からなるこの18小節である。
ベートーヴェンは生涯のこの時期、動機の経済性に専念していたわけではない。彼はベートーヴェンであることにも心を砕いていた。「熱情」には、自己中心的な尊大さがある。「私があれを再利用して首尾よくやれないかどうか、目にもの見せん」といった傲慢な態度がある。だから、私の選んだベートーヴェン作品人気番付表によれば、このソナタは「シュテファン王序曲」と「ウェリントンの勝利」交響曲の間に位置している。」


この解釈からうまれた演奏は沢山の批評家たちに散々批判されてしまい、スキャンダルにまでなってしまいました。
「apassionata」は、Gouldにとってはまさにpassionでしたか。





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コメント 8

obasan

言葉の翻訳というのは、とても難しいものですね。言葉の持つ意味が含みを持っている場合もあるし、環境や歴史や・・・いろいろなものを理解して初めて伝わるものかもしれません。
特に楽語と分類されるもののには表情、感情、動作的なものいろんな要素がありますが、単純に訳されていてイメージを取り違えてしまうこともありますよね。
でも・・・・・考えてると面白いです。(*´∀`*)
by obasan (2014-02-21 13:26) 

Mineosaurus

お母さん、その女の子が『どうやさしいの?』って聴いたとしたらどう答えるんだろうね。

熱情ソナタに受ける感覚的な暑苦しさの論理的解析が実に芯を突いていますねえ。滅多に聴かないんだけどね。


by Mineosaurus (2014-02-21 20:03) 

glennmie

obasnさん、コメントありがとうございます。

訳語はホントに難しいですね。
外国の文学を読むときは、ほとんど訳者の方にお任せしてしまっているのだから、良い訳に出会ったとしても作品に直接触れたとは言い難い。
映画の字幕も大方の意味しか汲み取れないし。
観念の世界の音楽をさらに言葉で補う楽語を一言で置き換えてしまうのは、あまりに不足なことと思います。
言葉の起源・・・ラテン語やギリシア語にさかのぼると、こんな意味?とびっくりすることが多々あります。
長い長いヨーロッパの歴史を簡単に理解しようとするのは安易で怠惰なことだなぁ、とつくづく思います。
by glennmie (2014-02-21 23:44) 

glennmie

Mineosaurusさん、コメントありがとうございます。

熱情ソナタの暑苦しさ・・・ああ!まさにその言葉ですね。
情感を込めてこの曲を弾くことへの気恥ずかしさとか、逆にそういう演奏を聴いたときにシラっとした気分になってしまうことの理由がその辺にあるのかもしれませんね。
家にロベール・カサドシュという人のレコードがありまして、熱情に関してはこの演奏をよく聴いていました。
淡々とクールでかっこよかった。
Gouldの勇気ある告発にはかなわないですけど(笑)

by glennmie (2014-02-22 00:03) 

Enrique

アパショナート自体が後から付けられた名前で,その訳がまた「熱情」と二重の誤解。「偽ベートーベン」ほどではないにしろ,全く別のイメージが刷り込まれていて,標題・能書きで判断してしまう愚を告発していると言う事でしょうか。自らのアナリーゼと感性を信じれば良い事なんでしょうが。
何か好きになれない曲というのはありますが,それを単に弾かないのではなくて,その理由までをハッキリさせる演奏。さすがです。面白いです。
by Enrique (2014-02-22 13:50) 

glennmie

Enriqueさん、コメントありがとうございます。

Gouldはホントに素敵です♪ ~
長いこと名曲の誉れ高い曲に物申すのは勇気がいることだと思います。
私たち聴衆はみんな人が好いので(笑)、伝統的に良しとされているものは、そうなんだぁ・・・と頭から信じてしまいますね。
そういう聴衆の傾向を知っていて、皆がころりと騙されてしまう小技を使っちゃうベートーヴェンの尊大な「上から目線」にもパンチを入れたかったのかもしれません。
「well-tempered audience 」という言葉をGouldはよく使っていました。
皆が洗練された耳で本当に音楽を楽しめますように、そんな思いもあったのだと思います。
by glennmie (2014-02-22 15:37) 

e-g-g

23番、もうずいぶんと長いこと聴いていません。
そして自分にとっての“これだ!”という演奏もありません。
ご紹介のグールドのライナーノートを読むと、
それで良かったのかもしれないとも思います。

コメント欄に書かれているカサドシュですが、
聴くのはモーツアルトばかり、
熱情の演奏があることも知りませんでした。
こんど探してみましょう。

by e-g-g (2014-02-25 19:34) 

glennmie

e-g-gさん、コメントありがとうございます。

演奏家の方たちは、どんなところに共感してこの曲を演奏するのでしょうか。
いろんな意見を知りたいです。
Gouldの分析はとても納得のいくものだと思いますが、今でも認められているとは言えませんし。

カサドシュさん、youtubeにあるかなとのぞきにいったら沢山の音源がupされていて驚きました。
とても活躍されていた方なんですね。
久しぶりに熱情も聴いてみました。子供時代の勉強机が何故か脳裏に浮かんできました。
by glennmie (2014-02-26 04:01) 

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