Autumn Concert [音楽雑感]
早いもので、9月ももうじき終わろうとしています。
11月に予定しているコンサートのチラシができあがりました。
(↓クリックで拡大します)
専門家のお二人に混ぜてもらって頑張ります。
今年は、Bachとワーグナーとエネスクを演奏します。
なんか、取り留めのない選曲のようですが、私の中では一つの世界の中にあるものです。
先月up したエネスクのサラバンドは、自分の中でもまだ迷いがある状態でした。
音響効果をかけて、画像をつけてナントカごまかしたつもりでいましたら、Mineosaurusさんから
ダメだしがでました。
やっぱり・・・(笑)
ありがたいことだとつくづく思います。
私は今現在独学ですが、ブログを通して素晴らしい方々から沢山のご意見やお知恵を分けていただいて、
それが何よりの勉強になっています。
皆さんからいただくコメントは、このブログの宝物だと思っています。
さてこのサラバンド・・・今この曲が大きな課題です。
どうも身につかないというか、頭の中に定着しないんです。
大好きなんだけど気が合わない人と向き合うにはどうしたらいいのだろう。
そんな悩みに似ています。
先日、気晴らしにアメリカのゲームサイトで"room escape"ゲームで遊んでいたのですが。
ゴシック風の廃墟のお屋敷の暖炉の上にエネスクの肖像画がかかっていました。
アハハ・・・こんなとこにまで・・・やだもう、逃げられん・・・・
自分の中で、何かピン!とくるものがひらめくまで、
しばらくフラフラ、あちこち出かけてみようかな、と思っています。
11月に予定しているコンサートのチラシができあがりました。
(↓クリックで拡大します)
専門家のお二人に混ぜてもらって頑張ります。
今年は、Bachとワーグナーとエネスクを演奏します。
なんか、取り留めのない選曲のようですが、私の中では一つの世界の中にあるものです。
先月up したエネスクのサラバンドは、自分の中でもまだ迷いがある状態でした。
音響効果をかけて、画像をつけてナントカごまかしたつもりでいましたら、Mineosaurusさんから
ダメだしがでました。
やっぱり・・・(笑)
ありがたいことだとつくづく思います。
私は今現在独学ですが、ブログを通して素晴らしい方々から沢山のご意見やお知恵を分けていただいて、
それが何よりの勉強になっています。
皆さんからいただくコメントは、このブログの宝物だと思っています。
さてこのサラバンド・・・今この曲が大きな課題です。
どうも身につかないというか、頭の中に定着しないんです。
大好きなんだけど気が合わない人と向き合うにはどうしたらいいのだろう。
そんな悩みに似ています。
先日、気晴らしにアメリカのゲームサイトで"room escape"ゲームで遊んでいたのですが。
ゴシック風の廃墟のお屋敷の暖炉の上にエネスクの肖像画がかかっていました。
アハハ・・・こんなとこにまで・・・やだもう、逃げられん・・・・
自分の中で、何かピン!とくるものがひらめくまで、
しばらくフラフラ、あちこち出かけてみようかな、と思っています。
言霊 [私の録音( not Bach )]
「気」は「意思」
人は意思を生成した瞬間に気を作用させることで「身体」を稼働させる。
気は既存の科学範疇にある物質ではない。
気は5次元の時空を越える霊の存在に関係している。
願わくば、心から心へ。
私は、古代日本語の響きに魅せられます。
その言葉は、音韻的な意味を持っている。
「音」が、「音」そのものの響きが、魂の宇宙との調律。
心と身体にパワーをくれる。
私の好きな音楽と同じものを感じるのです。
ハライタマエ
キヨメタマエ
マモリタマエ
カムナガラクシミタマ
サキハエタマエ
祓い給へ
清め給へ
守り給へ
神ながら奇しミタマ
幸え給へ
私の先祖たちへ。
地球上の全ての私の隣人たちへ。
そして、自分にも。
ネガワクバ・・・・・
人は意思を生成した瞬間に気を作用させることで「身体」を稼働させる。
気は既存の科学範疇にある物質ではない。
気は5次元の時空を越える霊の存在に関係している。
願わくば、心から心へ。
私は、古代日本語の響きに魅せられます。
その言葉は、音韻的な意味を持っている。
「音」が、「音」そのものの響きが、魂の宇宙との調律。
心と身体にパワーをくれる。
私の好きな音楽と同じものを感じるのです。
ハライタマエ
キヨメタマエ
マモリタマエ
カムナガラクシミタマ
サキハエタマエ
祓い給へ
清め給へ
守り給へ
神ながら奇しミタマ
幸え給へ
私の先祖たちへ。
地球上の全ての私の隣人たちへ。
そして、自分にも。
ネガワクバ・・・・・
チャランケ!
何故今この動画を?
いえ、いまだからこそ。
今回ではなかった。
しかし、今から数年のうちにきっとこの人の「時」がやってくると思っています。
この人の「目」
この「目」にピンときたら、是非以下の動画をご覧になって下さい。
「オレ、お金ないけど、見えない富でジャラジャラなんですよ。
服を作れる友達、米を作れる友達、野菜を作れる友達、歌を作れる友達、大工の友達・・・・
新しくて懐かしい日本の国力って、そこにあるんじゃないかな。
ハンド・メイド、職人イズム。
資源のない国は人の力ですよ。
芸術もそう。で、それを文化っていうんでしょ?
文化の力。戦争とか物質とは真逆の文化の力。
見えないものに無限の価値をつけられる人間の力。
これがもっと意識の奥底まで、日本人が今目覚めるべき時だと思う。」
選挙の前日の土曜日、ささやかなピアノの発表会がありました。
小さな子供たちが、心を込めて一生懸命に演奏しました。
お友達の演奏に感激しあったり応援しあったりしている姿を、、舞台袖から見ていました。
この子供達の感性は、自由にのびのびと育っていくための環境は、絶対に守らなければならない。
私にとって、とても象徴的な2日間でした。
WORLD ORDER
私の尊敬する忌野清志郎さんが、13年前にこんなことを書いています。
「地震の後には戦争がやってくる。軍隊を持ちたい政治家がTVででかいことを言い始めてる。
国民をバカにして戦争にかりたてる。自分は安全なところで偉そうにしてるだけ。
阪神大震災から5年。俺は大阪の水浸しになった部屋で目が覚めた。TVをつけると5ヵ所ほどから火の手がのぼっていた。「これはすぐに消えるだろう」と思ってまた眠った。6時間後に目が覚めると神戸の街は火の海と化していた。
この国は何をやっているんだ。復興資金は大手ゼネコンに流れ、神戸の土建屋は自己破産を申請する。
これが日本だ。私の国だ。
.
.
政治家はみんな防衛庁が大好きらしい。人を助けるとか世界を平和にするとか言って実は軍隊を動かして世界を征服したい。
.
.
民衆をだまして、民衆を利用していったい何になりたいんだ。予算はどーなってるんだ。予算をどう使うかっていうのはいったい誰が決めてるんだ。10万円のために人を殺す奴もいれば、10兆円とか100兆円とかをうごかしてる奴もいるんだ。
一体この国は何なんだ。俺が生まれて育ったこの国のことだ。キミが生まれて育ったこの国のことだよ。
どーだろう・・・・この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考え方みたいじゃないか?
戦争を放棄して世界の平和のためにがんばるって言ってるんだぜ。俺たちはジョン・レノンみたいじゃないか。
戦争はやめよう。平和に生きよう。そしてみんな平等に暮らそう。
きっと幸せになれるよ。」
2013年7月21日、私たちはどこへ向かっていくのだろうか。
meu tempo [音楽雑感]
メトロノームは、1800年頃ドイツ人のヨハン・メルツェルが実用化した画期的なガジェット。
1分間に音符を何回刻むか。
メトロノームがあれば正確な数値で演奏を管理することが出来る。はず。
ところで、メトロノームの数字の横に表示されている速度標語(AllegroとかAndanteとか)って誰が決めたんだろう?
もちろん、メルツェルさんやウィンケルさんではないですよね。
Allegroが120~168とか、Andanteが76~108とか、どうしてこのように決まっているのでしょうか。
昔から不思議だったのですが、今尚不思議です。
誰が設定したのだろう。
通常は、常識では、良識に基づいて・・・・いつの時代の誰のどんな常識からきているのかしら。
知りたい。
tempoという言葉は音楽の世界では速度のことを言いますが、もともとのイタリア語では、時間。
「time」と同義語ですよね。
私の時間とあなたの時間は同じでなければならないということか。
楽譜の左上に明記してあるメトロノーム表示。
M.M.=60とか、♪=132とか、実はちゃんと守って弾いたことがありません。
(もっとも、エチュードや教材は別ですけれど。
バルトークがミクロコスモスで「M.M.=120、20秒で」と記していることには大きな意味があると思います。)
だってね、この数値、たとえ作曲者本人による指定だとしても、それが案外当てにならないものだというのを私は知っている。
メトロノームの価値を大いに認めていたのはベートーヴェンだ、というのは周知のことですけれども、
たしか第9だったと思う。
ロンドン公演の演奏者からテンポの数値を尋ねられたベートーヴェンは、自分で設定したテンポのメモをなくしてしまっていて、新たに書き起こして手紙で送ったのだそうです。
ほどなくして失くしていたメモが見つかったのですが、その数値が全然違っていた・・・で愕然としたそうで。
ワーグナーは、自分の作品のテンポが演奏者の自由にされるのが我慢ならない。
演奏者に文句をつけると、「楽譜の指示通りです。」との答えがかえってくるのが度々あったのだそうで、じきにメトロノーム表記をやめてしまったとか。
人間は機械ではないのだから、自分の感覚を数値では決められない。
時間に関する感覚だって、朝と夜では全然違うし、湿気の多い時、暑い時、寒い時、健やかなる時、病める時・・・・全然違うし。
作曲家が自分の曲を演奏する時はとっても速いんですよ、とアナリーゼ講座の中村先生が仰っていました。
ご自身が作曲家でいらっしゃるから、その言葉には説得力があります。
自分自身の曲が頭の中で鳴る時は、他人の曲を鳴らすのとはちがって、一瞬で駆け巡るのでしょうね。
事実、ラフマニノフやラヴェルやエネスクの自作曲の演奏はどれもとっても速い。
曲の頭に表記されているメトロノーム記号は、慎重に見なければなりませんね、それが作曲者自身の指定だったとしたら尚更。
一方、通常はイタリア語で表記される速度標語。
歴史を重ねるにつれて、どんどん数を増し細かい表現になっていくところが面白い。
標語が使われ始めた初期の頃、バロック期の速度標語はとても数が少ないです。
「Allegro(速い)」と「Andante(遅い)」が主流でしょうか。
速いか遅いかがわかればいい、ということでしょうね。
それ以上は、演奏習慣に則った演奏者の解釈に委ねられていたと理解できます。
その後、作曲家の社会的地位や演奏の場の変化に伴い標語は複雑になっていきます。
Andanteよりももっと遅くしたいんだ、とAdagioが頻繁に使われるようになりますが、
例えばモーツァルトのAdagioとベートーヴェンのAdagioでは、明らかにその意味も速度も違いますよね。
そこで冒頭のメトロノームの疑問です。
BachのAndanteもベートーヴェンのAndanteも同様に76~108の中に括ってしまっていいの?
時代考証や作曲家のキャラクターを考慮したい時、この「目安」が邪魔になる。
大体、速度標語ってよく見てみると実際に「速度」を示す言葉ではないですよね。
「速度をイメージさせる言葉」なのでは?
Grave・・・重々しく
Lento・・・のろのろと
Adagio・・・ゆるやかに
Andante・・・歩くように
Allegro・・・陽気に
Vivace・・・活発に
作曲家の要求が高くなると、速度記号も細かくなります。
Allegro assai Vivace ma Serioso・・・・とか。
作曲家の切実なお願いが身に沁みて、こんな表記に出会うと「はい!了解しました!」と敬礼しています。
標語の種類が多様になってくると、選択の幅が増えてきます。
同じ「ゆっくり」でも、どの言葉を選ぶのか、そこに作曲家のキャラクターや曲の趣向が見えてきて
とても面白いです。
例えば、ショパンは「Adagio」を使わない。
彼が「ゆっくり」を表す時は、もっぱら「Lento」を使っていますね。
ここに彼の性格とか趣向とか美意識とかが見えてくるのだと思います。
meu tempo
楽譜をじっくり読み解いて、自分のテンポ、自分の時間の中でのびのび演奏を楽しみたいですね。
La Danse Macabre_死の舞踏 [Gould]
モーリス・ラヴェルの舞踏詩『ラ・ヴァルス』
ラヴェルは初版の楽譜に次のような標題を添えています。
「渦巻く雲の中から、ワルツを踊る男女がかすかに浮かび上がって来よう。雲が次第に晴れ上がる。と、A部において、渦巻く群集で埋め尽くされたダンス会場が現れ、その光景が少しずつ描かれていく。B部のフォルティッシモでシャンデリアの光がさんざめく。1855年ごろのオーストリア宮廷が舞台である。」
ラヴェルは第一次世界大戦に従軍しています。
その時の写真を見たことがありますが、軍服が全く板についていなくて何となく滑稽で哀しい姿でした。
砲弾の下をかいくぐって資材を運ぶトラック輸送兵としての辛い経験は彼に重いストレス障害をもたらし、
またその頃、彼は最愛のお母さんを亡くしています。
辛く悲しい時期、この作品はそんな頃に書かれています。
ウィーンの華麗な舞踏会を描いているはずのこの曲は、しかし、退廃的で暗い影に覆われています。
不安定な転調を繰り返し、軽やかなワルツのステップが徐々に乱れ崩壊し、突然終止します。
華やかな貴族社会の終焉を予告するような不気味なエンディング。
まさに、このワルツは死の舞踏なのですね。
Gouldの演奏がとても面白い。
ラヴェル自身のピアノ版編曲に、さらにGouldが手を加えたGould校訂版「ラ・ヴァルス」です。
おどろおどろしい無調の響きから立ち上ってくる死の舞踏。
鋭いリズム感から紡ぎだされるワルツのリズムは、けれども決してワルツを歌わず、
幻想的な色彩感をも排除して徹底してクールです。
とてもカッコイイ。
この曲はもともと彼の「シルバー・ジュビリー・アルバム」の中の「グレン・グールド・ファンタジー」に収められているものです。
このアルバムは強烈ですよ。(笑)
彼のデビュー25周年記念盤なのですが、
タイトルの「シルバー・ジュビリー」はホロヴィッツの「ゴールデン・ジュビリー」に対する当て付けらしい。
「グレン・グールド・ファンタジー」の中ではホロヴィッツが12年のブランクを経てステージに返り咲いたライヴ「ヒストリック・リターン」に当て付けて、Gouldもステージに返り咲く「ヒステリック・リターン」の模様が繰り広げられます。
ステージの場所は北極の油田採掘場。
ブリザードがビュービュー吹き荒れる中彼は「ラ・ヴァルス」を演奏するのです。
途中大波に自慢のイスを流され、それでも中断することなく膝をついて演奏を続ける彼の雄姿。
演奏が終わると観客のアザラシたちが、「モワッ!モワ~ッ!!」と声援を送りながら尾ひれを叩いて拍手をするんです。
「サンキュー、サンキュー。」と答える嬉しそうなGouldには爆笑しましたよ。
ラヴェルは初版の楽譜に次のような標題を添えています。
「渦巻く雲の中から、ワルツを踊る男女がかすかに浮かび上がって来よう。雲が次第に晴れ上がる。と、A部において、渦巻く群集で埋め尽くされたダンス会場が現れ、その光景が少しずつ描かれていく。B部のフォルティッシモでシャンデリアの光がさんざめく。1855年ごろのオーストリア宮廷が舞台である。」
ラヴェルは第一次世界大戦に従軍しています。
その時の写真を見たことがありますが、軍服が全く板についていなくて何となく滑稽で哀しい姿でした。
砲弾の下をかいくぐって資材を運ぶトラック輸送兵としての辛い経験は彼に重いストレス障害をもたらし、
またその頃、彼は最愛のお母さんを亡くしています。
辛く悲しい時期、この作品はそんな頃に書かれています。
ウィーンの華麗な舞踏会を描いているはずのこの曲は、しかし、退廃的で暗い影に覆われています。
不安定な転調を繰り返し、軽やかなワルツのステップが徐々に乱れ崩壊し、突然終止します。
華やかな貴族社会の終焉を予告するような不気味なエンディング。
まさに、このワルツは死の舞踏なのですね。
Gouldの演奏がとても面白い。
ラヴェル自身のピアノ版編曲に、さらにGouldが手を加えたGould校訂版「ラ・ヴァルス」です。
おどろおどろしい無調の響きから立ち上ってくる死の舞踏。
鋭いリズム感から紡ぎだされるワルツのリズムは、けれども決してワルツを歌わず、
幻想的な色彩感をも排除して徹底してクールです。
とてもカッコイイ。
この曲はもともと彼の「シルバー・ジュビリー・アルバム」の中の「グレン・グールド・ファンタジー」に収められているものです。
このアルバムは強烈ですよ。(笑)
彼のデビュー25周年記念盤なのですが、
タイトルの「シルバー・ジュビリー」はホロヴィッツの「ゴールデン・ジュビリー」に対する当て付けらしい。
「グレン・グールド・ファンタジー」の中ではホロヴィッツが12年のブランクを経てステージに返り咲いたライヴ「ヒストリック・リターン」に当て付けて、Gouldもステージに返り咲く「ヒステリック・リターン」の模様が繰り広げられます。
ステージの場所は北極の油田採掘場。
ブリザードがビュービュー吹き荒れる中彼は「ラ・ヴァルス」を演奏するのです。
途中大波に自慢のイスを流され、それでも中断することなく膝をついて演奏を続ける彼の雄姿。
演奏が終わると観客のアザラシたちが、「モワッ!モワ~ッ!!」と声援を送りながら尾ひれを叩いて拍手をするんです。
「サンキュー、サンキュー。」と答える嬉しそうなGouldには爆笑しましたよ。
エネスク・・・ピアノのための組曲第2番 Op.10 [音楽雑感]
27歳のGouldの映像です。
作曲家志望の彼に、「新しい音は見つかったの?」と尋ねると、
「見つからなくて悲観的になってるんだ。
調性音楽はもう終わったと言われているし、自分が求めている音は70年も前の時代遅れだと言われてしまう・・・それではいけないのだろうか?
例えば、誰かの作風で曲を書くというのはいけないのだろうか・・・」
と答えています。
構わないけれど、ある時はシューマン風、ある時はブラームス風なんて作曲科の学生みたいだよ、といわれていますね。
自分自身の方向性を定めないといけないよ、と言われると、それがなくて困っていると。
結局、Gouldが作曲家になれなかった最大の理由がここにあるのではないかな。
全く個人的な意見なのですが、
西洋音楽の歴史とは、個々の作曲家達の新しい価値観の提示の積み重ね、
これまでの常識を打ち破り、今までに見ることの出来なかった新しい地平を見んとする情熱や試みの積み重ねによって支えられてきたものだと思います。
それまでの音楽の常識や基礎や方法論を否定して、次の世界に進んでいこうという気概。
そうした気概がないのであれば、たとえ彼が作曲家になったとしてもせいぜい映画音楽作家か、べらぼうに演奏の達者なリチャード・クレイダーマンで終わっていたでしょうね。
作曲が好きなことと、作曲家になるということは同じことではない。
彼が天性のピアニストであったように、生まれながらに天性の作曲家である人もいる。
ルーマニアの作曲家、ジョルジェ・エネスクの作品をただ今勉強中です。
ピアノのための組曲No.2・・・これね、知れば知るほど凄い作品だと思います。
エネスクが20歳の時の作品。
時代だ、作風だ、方法論だ・・・そんなものを、なんと軽やかに飛び越えてこの若者は地上に降り立ったものかと・・・そんな感じ。
Mineosaurusさんの記事でこの曲に出会って一目惚れしてしまい、私も弾いてみたいなぁと思ったのですが。
楽譜を手にするまで一悶着あってちょっと可笑しかった。
エネスクのピアノ譜はあまり出回っていなくて、この曲に関してはフランスのENOCH社から出ているものしかみつかりませんでした。
よく利用する無料楽譜サイトにこの出版社の楽譜が出ていたので、ラッキー!とダウンロードしたんです。
何十枚もあってプリンターのインクが切れて買いに走りましたよ
で、やっと落ち着いて曲の譜読み・・・・・
なんかね、変なんですよ。
音が。
これでいいのか~~??という音の羅列で音痴になりそう。
で、あわててCDを買いに走りましたよ
で、やっと落ち着いて耳コピに・・・・
それで発覚したのですが、この楽譜、臨時記号が違っているんです。あっちもこっちも、それも大量に。
良く見るとナチュラル記号をシャープに書き換えたりその逆もあって・・・いたずら書き?
この楽譜にはGrazの音楽大学のスタンプが押してあるので図書館の楽譜だと思うのですが、学生のいたずらなのかな???
ピンクのペンで訂正しまくったのですが、時間と労力の無駄だ・・・
で、あわてて楽譜を買いに走りましたよ
プリンター・インクにCDに楽譜に・・・貧乏人を殺す気か。
そしてそして、ようやっと曲の分析に。
片手にペン、片手にガリガリくんを持って日夜取り組んでいます。
アナリーゼ講座の先生に教えていただいた数々のノウハウを駆使して。
(先生!私、頑張ってますから!)
私にとって最大のキーポイントは、この曲がニ長調だということです。
ラテン語で神様のことを「Deus」と言いますよね。
この頭文字をとって、バロック期の音楽でニ長調は神様を賛美する曲によく使われています。
有名なところではBachのあの名曲、
何度も繰り返して響き渡る「D」の音と祝祭的な晴れやかな響き。
エネスクのこの組曲が「古風な形式による」と銘打っているからには、彼も同様のイメージで曲を書いているものと思われます。
チューブラー・ベルで駆け下りてくるようなニ長調のスケールが華やかで、大聖堂の鐘がガラン・ゴロンと、
「おめでと~~!!」と祝ってくれているかのようです。
この曲はパリ音楽院の作曲の試験のために準備したという説があるようですが、だとしたら先に自分で「合格、おめでと~!神様、ありがとう!」と言っているのかしら?(笑)
この楽譜は、ペダルの指定がとても詳細です。
時々ふってある指番号やフレージングも意味深です。
これは作曲家の指示なのでしょうか。
生前に出版されていることから、たぶんそうなのでしょう。
ハーモニーを分析しているとこの曲の力学というか、この曲に秘められた世界観が見えてくるようで本当に面白いです。
エネスク自身による演奏も残っています。
それを聴きながら楽譜を眺めていると、さらに興味深いことがいくつも発見できました。
まだまだ理解は浅いのですが、
そろそろ鍵盤に向かって練習をはじめようかなと思っています。
SCOTT HALL [音楽雑感]
早稲田にある「スコット・ホール」に行ってきました。
1921年に建てられた由緒ある歴史的建造物です。
関東大震災にも耐え、東京大空襲からも生き延び、当時の姿のまま現存しているのだそうです。
不思議な存在感を感じます。
中も見せていただきました。
小さなパイプ・オルガンをのせた祭壇があります。
現在は早稲田奉仕園の礼拝堂となっていますが、基本は多目的ホールなので十字架をはずすこともあるのだそうです。
ステージの脇にピアノが。
天井は木製。
壁は漆喰。
通路にはこんな可愛い足踏みオルガンが置いてありました。
地下はギャラリースペースになっていて、写真展が開催されていました。
ステキな暖炉♪
木や石や土・・・全て自然素材で作られていて、とてもステキなホールです。
自然のものから作られているホールは、自然の響きがするのだろうな~。
こんなところでコンサートができたらいいな。
と、思ったら、なんと理想の日が空いていました。
私、秋にここでコンサートをすることにしました。
Gould on TV ② [Gould]
Bachを語るGould。
この動画はとても興味深いです。
1962年にカナダのCBCで放映された「Glenn Gould on Bach」というTV番組からの映像です。
内容の一部は既にいろいろなところで公開されていましたが、全内容が出てきたのは1年半ほど前です。
↓このDVDに収録されています。
私はまだ購入していません
3万円もするし。。。高いの。。。
ここでGouldが語っていることは、どの言葉もとても興味深いのですが、
中でも私が感動したことをいくつか記録しておこうと思います。
1.Bachとは・・・・
Bachの晩年、世の中の流れは変わり始めていた。
バロック時代とは、科学の有用性と人間の持つ誇るべき素質(信仰の魔術的、神秘的で畏敬すべき典礼)とが、まだ共存できる時代だった。
人間の意志と冷酷な運命の力の間に調停を求める力強い精神的な譲歩が、そこにはあった。
しかし時は変わり、論理的であることを求める世界、新しい若い発想を求める時代がやってくる。
音楽活動の拠点が教会から劇場へと移行していく時代。
新しい芸術が合理的な世界を合理的に反映する時代がやってきたのだ。
新しい時代には新しい音楽様式が生まれた。
Bachが亡くなった時、巨匠と呼ばれたのは彼ではなく彼の息子たちだった。
新しい音楽様式の下地作りをしたのは、他ならぬ彼の息子たちとその仲間・・・ヨゼフ・ハイドンなど・・・だった。
そして生まれた新しい音楽形式・・・交響曲とソナタは、簡略化され明確化された機能和声の世界に依存するようになっていく。
しかしBachは新しい時代に歩調を合わせることはせず、自分の信念を守り通した。
集団的な歴史プロセスの外に立つ独立独歩の芸術的良心を貫いた最大の頑固者なのだ。
2.Bachの素晴らしさとは・・・・
Bachは簡潔な和声的効果や隣り合う主題の明確な定義などはしなかったが、彼の和声は並外れて複雑で豊かである。
その音楽には永遠にうねり続ける和声的運動の流れがあり、たくさんの旋律線が複雑に絡み合って、あたかも、いつまでも安定を得られない人間のあり様を示唆しているようにも思える。
彼の音楽の中に私たちが期待するのは、大きな驚きの瞬間や表現というものではなく、事象の恒常性、発展の線的継続性、運動の確実性だ。
そもそもBachにとっての芸術とは、信仰の何なるかを表現する手段だったのだ。
無心に導かれるように何かを体験し、普遍で完全なる存在が現世の困難や誘惑に阻まれ、それでも必ずやその誘惑に打ち勝って乗り越えてゆく・・・そこに波乱万丈な人生のドラマが生まれる。
信仰の何なるかとはそういうことだ。
3.カンタータ「いざ罪に抗すべし」
Bachは、ある種の表現のために和声的な大きな冒険をすることがある。
それは16世紀のジュズアルド以降消え去られていて、20世紀のシェーンベルクまで現れることのなかった語法である。
(出た!ジュズアルド。私、思春期の頃にすごくはまったことがありました。意味もわからずもっぱら感覚的な好き嫌いの域ですけれど。
この美しくも不安定な半音階進行が沢山の不協和音や対斜を生むんです。
ここでのシェーンベルクで私が思い起こすのは、「浄夜」。Gouldはシェーンベルクを偉大なBachの後継者とよんでいました。
素晴らしい作品。)
カンタータ5番のテキストからは、人生の誘惑やそれを排除するために求められる絶え間ない努力といったものを受け取ることができる。
冒頭の和音は、Bachが持つ数々の和音の中で最も力強い和音の一つだ。
最初と最後の楽章は、対斜と掛留に満ち溢れていて、これらは一番深く一番激しい感情を抱いている主題のためのBachの取って置きの技法なのだ。
(当時は、ポドキー教授のバッハ論が話題になっていた頃なのでしょうか。いわゆる14はBachを表す数字であるとか、五度圏上の対角線は十字架音型であるとか・・・ちょっとダ・ヴィンチ・コードちっくな推理が流行っていた頃かもしれません。面白くて私も好きなのですが、Gouldはダメって言っています。)
しかし、Bachのカンタータの絵画的な特徴を強調するのは大変危険だ。
例えばこの冒頭のフレーズを劇的に見ると、属11の和音は魂の清廉を求める戦いの緊張と不協和を示し、主和音による解決は精神的な勝者を待つ安心感の境地であるとか、冒頭の和音は犠牲、戦いを求める迷惑な態度を意味し、主和音による解決は魂の安らぎと快楽を表すとか・・・・
Bachの神学的立場にどれほどの確信が得られようとも、彼が終始一貫して音の建築家であったという事実に間違いはない。
彼が私たちにとってかけがえのない存在である理由は、彼が疑いなく史上最大の音の建築家であったからに他ならない。
4.集大成としてのBach
Bachの音楽は、ルネサンス初期以来のヨーロッパ北部の巨匠たちが実践したあらゆる手法の総括である。
彼は、ドイツ、オランダ、フランドルの長い系譜の一番最後に位置している。
長調と短調に集約されたために限界が生じたとかつて考えられていた調性の概念から、活力のある和声を生み出そうとしていた人々の一番最後に。
Bachの和声的発想は、彼の生まれる1~2世紀前、音楽史上最も不安定な過渡期を含む時代の調体系に由来している。
Bachが用いた洗練された線的技法はすべて、本質的にはルネサンス時代の作曲家達によって発展、完成されてきたものだ。
では何故、彼の音楽があれほどまでに胸にせまるのか。
Bachはドイツ人であるがゆえに、初期バロックの対抗する二つの勢力の狭間に立っていた。
一つは北の勢力・・・対位法的な様式が元来声楽の前提にあるオランダ、フランドルの伝統。
もう一つは南の勢力・・・器楽様式の流麗な多様性を根源とするイタリア。
人生の終わりに近づくにつれて、Bachは対立しあう2つの音楽様式を結合させて感動的な新しい様式を展開させた。
そこでは、器楽様式の鋭敏さと幅広さ、声楽様式の簡潔性と純粋性が結びついている。
(ここで、彼が弾いているフレーズを是非聴いてください。31:53ころからです)
聞き覚えがありますか?これはコラールではありません。
ブランデンブルグ協奏曲5番の冒頭を和声進行にしたものです。
このように彼は、当時最も洗練されたイタリア的な形式においてさえ、ドイツ・コラールの書法を裏付ける和声的純粋さや思考の明快さを構造の支柱に据えているのだ。
ブランデンブルグ協奏曲はとても優雅で、イタリア的器楽書法の形式的バランスを持っている。
そうした特徴を持ちながらも、中心には多面性を与える多声的な性格の素晴らしい感覚を持っている。
・・・・・・・
以上(かなり省略)
これは、Gouldが29歳の時の映像です。
よくよく勉強して研究して、理解して、さらに自分自身の見解を持っていることに感動します。
「アナリーゼ講座」で、よく先生がフィッシャーやケンプの素晴らしさを教えてくださいますが、
ただ一言、プロってすごいんだな・・・と。
巧みな演奏力は勿論のこと、楽曲の分析、時代考証、作曲家の理解、思想・・・・全てを包括した上でさらに自分の見解をきちんと立証できる。
自分がプロの演奏家であると名乗れるのは、こうした凄い裏づけを持っているからなんですね~。
この動画はとても興味深いです。
1962年にカナダのCBCで放映された「Glenn Gould on Bach」というTV番組からの映像です。
内容の一部は既にいろいろなところで公開されていましたが、全内容が出てきたのは1年半ほど前です。
↓このDVDに収録されています。
私はまだ購入していません
3万円もするし。。。高いの。。。
ここでGouldが語っていることは、どの言葉もとても興味深いのですが、
中でも私が感動したことをいくつか記録しておこうと思います。
1.Bachとは・・・・
Bachの晩年、世の中の流れは変わり始めていた。
バロック時代とは、科学の有用性と人間の持つ誇るべき素質(信仰の魔術的、神秘的で畏敬すべき典礼)とが、まだ共存できる時代だった。
人間の意志と冷酷な運命の力の間に調停を求める力強い精神的な譲歩が、そこにはあった。
しかし時は変わり、論理的であることを求める世界、新しい若い発想を求める時代がやってくる。
音楽活動の拠点が教会から劇場へと移行していく時代。
新しい芸術が合理的な世界を合理的に反映する時代がやってきたのだ。
新しい時代には新しい音楽様式が生まれた。
Bachが亡くなった時、巨匠と呼ばれたのは彼ではなく彼の息子たちだった。
新しい音楽様式の下地作りをしたのは、他ならぬ彼の息子たちとその仲間・・・ヨゼフ・ハイドンなど・・・だった。
そして生まれた新しい音楽形式・・・交響曲とソナタは、簡略化され明確化された機能和声の世界に依存するようになっていく。
しかしBachは新しい時代に歩調を合わせることはせず、自分の信念を守り通した。
集団的な歴史プロセスの外に立つ独立独歩の芸術的良心を貫いた最大の頑固者なのだ。
2.Bachの素晴らしさとは・・・・
Bachは簡潔な和声的効果や隣り合う主題の明確な定義などはしなかったが、彼の和声は並外れて複雑で豊かである。
その音楽には永遠にうねり続ける和声的運動の流れがあり、たくさんの旋律線が複雑に絡み合って、あたかも、いつまでも安定を得られない人間のあり様を示唆しているようにも思える。
彼の音楽の中に私たちが期待するのは、大きな驚きの瞬間や表現というものではなく、事象の恒常性、発展の線的継続性、運動の確実性だ。
そもそもBachにとっての芸術とは、信仰の何なるかを表現する手段だったのだ。
無心に導かれるように何かを体験し、普遍で完全なる存在が現世の困難や誘惑に阻まれ、それでも必ずやその誘惑に打ち勝って乗り越えてゆく・・・そこに波乱万丈な人生のドラマが生まれる。
信仰の何なるかとはそういうことだ。
3.カンタータ「いざ罪に抗すべし」
Bachは、ある種の表現のために和声的な大きな冒険をすることがある。
それは16世紀のジュズアルド以降消え去られていて、20世紀のシェーンベルクまで現れることのなかった語法である。
(出た!ジュズアルド。私、思春期の頃にすごくはまったことがありました。意味もわからずもっぱら感覚的な好き嫌いの域ですけれど。
この美しくも不安定な半音階進行が沢山の不協和音や対斜を生むんです。
ここでのシェーンベルクで私が思い起こすのは、「浄夜」。Gouldはシェーンベルクを偉大なBachの後継者とよんでいました。
素晴らしい作品。)
カンタータ5番のテキストからは、人生の誘惑やそれを排除するために求められる絶え間ない努力といったものを受け取ることができる。
冒頭の和音は、Bachが持つ数々の和音の中で最も力強い和音の一つだ。
最初と最後の楽章は、対斜と掛留に満ち溢れていて、これらは一番深く一番激しい感情を抱いている主題のためのBachの取って置きの技法なのだ。
(当時は、ポドキー教授のバッハ論が話題になっていた頃なのでしょうか。いわゆる14はBachを表す数字であるとか、五度圏上の対角線は十字架音型であるとか・・・ちょっとダ・ヴィンチ・コードちっくな推理が流行っていた頃かもしれません。面白くて私も好きなのですが、Gouldはダメって言っています。)
しかし、Bachのカンタータの絵画的な特徴を強調するのは大変危険だ。
例えばこの冒頭のフレーズを劇的に見ると、属11の和音は魂の清廉を求める戦いの緊張と不協和を示し、主和音による解決は精神的な勝者を待つ安心感の境地であるとか、冒頭の和音は犠牲、戦いを求める迷惑な態度を意味し、主和音による解決は魂の安らぎと快楽を表すとか・・・・
Bachの神学的立場にどれほどの確信が得られようとも、彼が終始一貫して音の建築家であったという事実に間違いはない。
彼が私たちにとってかけがえのない存在である理由は、彼が疑いなく史上最大の音の建築家であったからに他ならない。
4.集大成としてのBach
Bachの音楽は、ルネサンス初期以来のヨーロッパ北部の巨匠たちが実践したあらゆる手法の総括である。
彼は、ドイツ、オランダ、フランドルの長い系譜の一番最後に位置している。
長調と短調に集約されたために限界が生じたとかつて考えられていた調性の概念から、活力のある和声を生み出そうとしていた人々の一番最後に。
Bachの和声的発想は、彼の生まれる1~2世紀前、音楽史上最も不安定な過渡期を含む時代の調体系に由来している。
Bachが用いた洗練された線的技法はすべて、本質的にはルネサンス時代の作曲家達によって発展、完成されてきたものだ。
では何故、彼の音楽があれほどまでに胸にせまるのか。
Bachはドイツ人であるがゆえに、初期バロックの対抗する二つの勢力の狭間に立っていた。
一つは北の勢力・・・対位法的な様式が元来声楽の前提にあるオランダ、フランドルの伝統。
もう一つは南の勢力・・・器楽様式の流麗な多様性を根源とするイタリア。
人生の終わりに近づくにつれて、Bachは対立しあう2つの音楽様式を結合させて感動的な新しい様式を展開させた。
そこでは、器楽様式の鋭敏さと幅広さ、声楽様式の簡潔性と純粋性が結びついている。
(ここで、彼が弾いているフレーズを是非聴いてください。31:53ころからです)
聞き覚えがありますか?これはコラールではありません。
ブランデンブルグ協奏曲5番の冒頭を和声進行にしたものです。
このように彼は、当時最も洗練されたイタリア的な形式においてさえ、ドイツ・コラールの書法を裏付ける和声的純粋さや思考の明快さを構造の支柱に据えているのだ。
ブランデンブルグ協奏曲はとても優雅で、イタリア的器楽書法の形式的バランスを持っている。
そうした特徴を持ちながらも、中心には多面性を与える多声的な性格の素晴らしい感覚を持っている。
・・・・・・・
以上(かなり省略)
これは、Gouldが29歳の時の映像です。
よくよく勉強して研究して、理解して、さらに自分自身の見解を持っていることに感動します。
「アナリーゼ講座」で、よく先生がフィッシャーやケンプの素晴らしさを教えてくださいますが、
ただ一言、プロってすごいんだな・・・と。
巧みな演奏力は勿論のこと、楽曲の分析、時代考証、作曲家の理解、思想・・・・全てを包括した上でさらに自分の見解をきちんと立証できる。
自分がプロの演奏家であると名乗れるのは、こうした凄い裏づけを持っているからなんですね~。
brute-force [音楽雑感]
フリーハンドできれいな円を描くことができますか?
絵描きさんならきっとできるんでしょうね。
不器用な私はうまく描くことができません。
必ずイビツな形になってしまう。
ところが、両手で内から外へ同時に描くと、きれいにできるんです。
左右対称の動き。
水泳も、平泳ぎが楽で得意です。
これも左右対称の動きですね。
左右対称は人間の生理に適った動きなのかな。
楽に上手にできると、なんでも楽しくなりますね。
ピアノを弾くとき、この左右対称のイメージをよく使います。
真っ直ぐに座って両手の指を左右対称に動かすと、リラックスして無理なく準備運動ができます。
ピアノの楽譜って、縦にして見ると中央のドを挟んで左右対称に広がっていくじゃないですか。
ピアノの演奏には、中央のドを中心に左右対称に円を描くようなバランス感覚が必要なんじゃないかな、と思います。
私はバルトークの「ミクロコスモス」が大好きで、大変大変素晴らしい教材だと信じているのですが、初期の段階から、まさに左右対称に音が進むような曲が収められています。
無理なく、人間の生理に適ったところから始めているんですよね。
当然左右は違うメロディーを弾く事になるわけで、捉えにくい対位法のイメージも知らない間に身についていくようになっています。
凄いな、バルトーク。
子供のレッスンでも積極的に取り入れて使っているのですが、どうも保護者ウケがいまいち良くないです。
「この不気味な音楽を喜んで弾いているの。変な子になりそうでこわいわ。」(笑)
「思い通りに指が動くから楽しいんですよ、きっと。幸せそうに楽器を弾く子って、逆にステキじゃない?」
一方、明らかに人間の本能に反していると思っている教材もあります。
シャルル=ルイ・アノンの「60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト」。
いわゆる「ハノン」ですね。
この本が嫌い。
長さも機能も、個性の全く異なる10本の指を全部同様に、一斉に同じ方向を向かせて動かす訓練。
なんとなく、お隣の国のマスゲームや軍事パレードを連想してしまいます。
10本の指が同じ顔になるように、日夜長い時間をかけてひたすら無機的な音を叩き続けるのってなんかホラー。
使う側にも指導する側にも豊かな創造力が備わっているのなら有効に使える本だとは思いますが、
私はこの教材を、「5指(小指)虐待本」と呼んでいます。
先日kotenさんのお宅でクラヴィコードを弾かせていただいた時、鍵盤がとても短いことに最初困惑しました。
この長さでは5本の指を全部鍵盤上に置くことは難しい。
しかし、バロック・フィンガリングは基本3.2.3.2と演奏することが多いからこの長さの鍵盤で十分なのかと納得しました。
1(親指)のとても個性的な指は、ここぞと言う時に使う特殊な指だったし、5(小指)のか細い指は滅多に使わない。
ハープもリコーダーも5の指は使わない。きっとそれが自然なのでしょうね。
音楽が複雑になってくると、そうも言っていられなくなって全ての指が必要になるのですが。
だから5の指をマッチョにすると言う発想ではなく、5の特性を活かした使い方を工夫するという考え方の方が自分にはしっくり来ます。
なるほど、それであなたの音並びは汚いのね、と言われそうですが、違うよ。
私の音並びが汚いのは「ハノン」を拒否したからではなく、大雑把に言ってしまえば頭が悪いからです。
それぞれのメロディーの様相を熟考し、運指を十分検討する知恵が足らないからだと思っています。
知恵が足らないのなら、識者の意見を拝めばいい。
最近、エドゥウィン・フィッシャー校訂のBach、インヴェンションを一生懸命勉強しています。
フィッシャー版のBachは現在絶版になっていて、入手がなかなか困難です。
毎回お世話になっている「アナリーゼ講座」の先生がフィッシャー版の素晴らしさを仰っていて、先生が尽力してくださったおかげで、オン・デマンドの楽譜を手にすることができました。
インヴェンション、フランス組曲、クラヴィア協奏曲、、、と少しずつ手に入れることが出来ています。
解説の素晴らしさはもとより、先生が絶賛なさっているのはその運指。フィンガリングです。
実はフィッシャー版が絶版になった大きな理由は、そのフィンガリングなのだそうです。
弾きにくくて実用的でないから・・・
フィッシャーの意図~Bachの意図を読み解く能力のない人が多すぎる、と先生は嘆いていらっしゃいました。
実際に使ってみて、先生の仰ることが少し理解できるようになりました。
フィッシャーがふっている数字には、その中にとても深い意味が含まれています。
はるか昔の遠い存在の人ですが、すぐそばでレッスンしていただいているのと同じかもしれません。
そして、実用的でないというその運指ですが、私にはとても自然で納得がいくものに思えます。
人間の生理に反しているところがないように思えます。
弾きにくいフレーズを力任せに、何度も繰り返し練習で乗り切るのもありなのでしょうが、
理解して共感して、納得すると苦もなくさらりと弾けてしまい、演奏することが楽しく、喜びになります。
これこそがBachが伝えたかったことなのではないでしょうか。
絵描きさんならきっとできるんでしょうね。
不器用な私はうまく描くことができません。
必ずイビツな形になってしまう。
ところが、両手で内から外へ同時に描くと、きれいにできるんです。
左右対称の動き。
水泳も、平泳ぎが楽で得意です。
これも左右対称の動きですね。
左右対称は人間の生理に適った動きなのかな。
楽に上手にできると、なんでも楽しくなりますね。
ピアノを弾くとき、この左右対称のイメージをよく使います。
真っ直ぐに座って両手の指を左右対称に動かすと、リラックスして無理なく準備運動ができます。
ピアノの楽譜って、縦にして見ると中央のドを挟んで左右対称に広がっていくじゃないですか。
ピアノの演奏には、中央のドを中心に左右対称に円を描くようなバランス感覚が必要なんじゃないかな、と思います。
私はバルトークの「ミクロコスモス」が大好きで、大変大変素晴らしい教材だと信じているのですが、初期の段階から、まさに左右対称に音が進むような曲が収められています。
無理なく、人間の生理に適ったところから始めているんですよね。
当然左右は違うメロディーを弾く事になるわけで、捉えにくい対位法のイメージも知らない間に身についていくようになっています。
凄いな、バルトーク。
子供のレッスンでも積極的に取り入れて使っているのですが、どうも保護者ウケがいまいち良くないです。
「この不気味な音楽を喜んで弾いているの。変な子になりそうでこわいわ。」(笑)
「思い通りに指が動くから楽しいんですよ、きっと。幸せそうに楽器を弾く子って、逆にステキじゃない?」
一方、明らかに人間の本能に反していると思っている教材もあります。
シャルル=ルイ・アノンの「60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト」。
いわゆる「ハノン」ですね。
この本が嫌い。
長さも機能も、個性の全く異なる10本の指を全部同様に、一斉に同じ方向を向かせて動かす訓練。
なんとなく、お隣の国のマスゲームや軍事パレードを連想してしまいます。
10本の指が同じ顔になるように、日夜長い時間をかけてひたすら無機的な音を叩き続けるのってなんかホラー。
使う側にも指導する側にも豊かな創造力が備わっているのなら有効に使える本だとは思いますが、
私はこの教材を、「5指(小指)虐待本」と呼んでいます。
先日kotenさんのお宅でクラヴィコードを弾かせていただいた時、鍵盤がとても短いことに最初困惑しました。
この長さでは5本の指を全部鍵盤上に置くことは難しい。
しかし、バロック・フィンガリングは基本3.2.3.2と演奏することが多いからこの長さの鍵盤で十分なのかと納得しました。
1(親指)のとても個性的な指は、ここぞと言う時に使う特殊な指だったし、5(小指)のか細い指は滅多に使わない。
ハープもリコーダーも5の指は使わない。きっとそれが自然なのでしょうね。
音楽が複雑になってくると、そうも言っていられなくなって全ての指が必要になるのですが。
だから5の指をマッチョにすると言う発想ではなく、5の特性を活かした使い方を工夫するという考え方の方が自分にはしっくり来ます。
なるほど、それであなたの音並びは汚いのね、と言われそうですが、違うよ。
私の音並びが汚いのは「ハノン」を拒否したからではなく、大雑把に言ってしまえば頭が悪いからです。
それぞれのメロディーの様相を熟考し、運指を十分検討する知恵が足らないからだと思っています。
知恵が足らないのなら、識者の意見を拝めばいい。
最近、エドゥウィン・フィッシャー校訂のBach、インヴェンションを一生懸命勉強しています。
フィッシャー版のBachは現在絶版になっていて、入手がなかなか困難です。
毎回お世話になっている「アナリーゼ講座」の先生がフィッシャー版の素晴らしさを仰っていて、先生が尽力してくださったおかげで、オン・デマンドの楽譜を手にすることができました。
インヴェンション、フランス組曲、クラヴィア協奏曲、、、と少しずつ手に入れることが出来ています。
解説の素晴らしさはもとより、先生が絶賛なさっているのはその運指。フィンガリングです。
実はフィッシャー版が絶版になった大きな理由は、そのフィンガリングなのだそうです。
弾きにくくて実用的でないから・・・
フィッシャーの意図~Bachの意図を読み解く能力のない人が多すぎる、と先生は嘆いていらっしゃいました。
実際に使ってみて、先生の仰ることが少し理解できるようになりました。
フィッシャーがふっている数字には、その中にとても深い意味が含まれています。
はるか昔の遠い存在の人ですが、すぐそばでレッスンしていただいているのと同じかもしれません。
そして、実用的でないというその運指ですが、私にはとても自然で納得がいくものに思えます。
人間の生理に反しているところがないように思えます。
弾きにくいフレーズを力任せに、何度も繰り返し練習で乗り切るのもありなのでしょうが、
理解して共感して、納得すると苦もなくさらりと弾けてしまい、演奏することが楽しく、喜びになります。
これこそがBachが伝えたかったことなのではないでしょうか。